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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・15
いつぞやか、慈斎が言っていたことは今でも変わらないのだろうかと和宏はふと思う。慈玄か自分か、どちらかを選べという。あの時と現在とでは、状況が違う。慈斎は中峰の手先ではなく、一年後の誓約を果たすための協力者、そのはずだ。
けれども。
慈玄と彼の確執は、そう容易くなくなりはしないだろう。未だ慈玄への当てつけに、和宏を奪おうと考えているかもしれない。だがそんな危惧を置いても、もはや和宏にとって慈斎は「大切なひと」の一人となっていた。信頼したい、傷つけたくない相手。
「う、うん。そんなことがあったら、慈斎のとこに避難するよ。でも俺は、やっぱりまたみんなで飯食いたい、な」
もやもやした気持ちをごまかすために言ったことだが、これが和宏の本意でもある。
「ま、その方が和らしいか」
慈斎が浮かべた苦笑には、なにか別の感情が微妙に滲む。彼自身も和宏も、それに気付きはしなかったものの。
「でもさぁ、ちょっと興味あるから何があったのか教えてくれない?慰めるのにも、状況がわからないとね」
意地悪く、慈斎は追求してみる。面白がっているのが和宏にもわかったので口を尖らせたが、会いたかった慈斎に会えた昂揚と退屈凌ぎ、それに今頃デレデレしながら恭を送っているであろう慈玄への意地とで、やけくそ半分もあり和宏は詳細を慈斎に語って聞かせた。
「実はさ。今日、バイト先でイベントがあって」
和宏の話をさも愉快そうに聞いていた慈斎だったが、夢露のことが出たあたりで一瞬ぴくりと片眉を上げた。
「なるほど、学校の保健のセンセイ、ね」
口調に含みを感じて、和宏は一旦言葉を切った。
「夢露先生がどうかした?慈斎」
「あ、うぅん?俺、その人見たこともないし」
はぐらかすようにして、慈斎は笑う。
首を捻りながら、和宏は話を再開させようとした。が、なんだか腰を折られたようだったし、彼には珍しく愚痴っぽくなりがちだったのもあってさっさと締めくくってしまった。
「で、その恭さんを、慈玄が送って帰った、ってわけ」
そこまで慈斎がきちんと聞いていたかどうか定かではない。考え込むようにして頬杖を突いた彼に、和宏は訝しげな視線を送る。
「ごめん、なんか、つまんないこと言って」
「え?そんなことないよ。慈玄が可愛い子に甘いのは、昔から変わらないからね」
慈斎はおもむろに立ち上がると、ベッドに座った和宏の隣へ移動した。並んで真横に座る。
「それで?和、慈玄に愛想が尽きた?」
やや煽るように顔を近付け、和宏を覗き込む。挑発と気付いても、どぎまぎして和宏は目を泳がせた。
「そっ、そんなんじゃない、けど」
「なんだ、違うの。ざーんねん」
「え?」
顔を上げた瞬間、唇同士が素早く重なった。軽いキスであっても、この流れだ。和宏は大いに狼狽える。
「じ、慈斎、や、っぱり、俺と慈玄が離れればいい、と思ってる?」
「そりゃ思うよ。俺だって和のこと好きだもん」
この与太者の真意は掴みづらい。しかし和宏は素直で純真だ。「好き」とストレートに言われたのを、無闇に疑ったりはしない。
「おっ、俺も!慈斎のこと好きだよ?だけど……」
「知ってるよ。一緒にいるって決めたのは慈玄、なんでしょ?」
和宏は下を向いて口調を重くする。
「ん。でも、ちょっとよくわかんなくてさ。慈玄も一緒にいたい、って言ってくれたけど、俺だけが傍にいたんじゃ駄目なのかなって思って」
「うん?どーゆう意味?和一人じゃ、慈玄が不満に思うってこと?」
どうやら、単に口喧嘩で気落ちしているだけではないらしいと慈斎もようやく把握する。茶化すのはやめ、続きを促した。
「不満、っていうか。ほんとに俺で良いのかなって。あんまり信用されてないみたいだし、色々足りないみたい、だし」
「足りない?和は自分で何が足りないと思うの?」
「わかんないけど。とりあえず、女の子じゃないし」
あまりの根本的な事由に、慈斎は少々面食らった。そんなことは誰もが承知している。いくら中性的な風貌でも、和宏に女性的な何かなど慈玄はまったく求めていないであろうし、それは慈斎も同様だった。
踏まえた上で、「恭」という女性と慈玄が接しているのを目にし、改めて和宏に突きつけられた苦悩だというのもわからない慈斎ではない。普段は「愛情」というものを率直に受け止めていればこそ、和宏はその不自然さに目を瞑っているだけなのだから。
「うーん、性別はともかく、普通誰でも足りないものなんていっぱいあると思うよ?完璧な奴なんていやしないし。でも、男とか女とか関係なく、和は慈玄が欲しいと思ってるものたくさん持ってると思うけどね。だから、中峰に楯突いても共にいたいと思ってんでしょ?」
「ほんと?」
じ、っと和宏は慈斎の目を見つめる。こればかりは慈斎も出任せで言ったのではないが、なればこそ尚更こそばゆさが背中を這う。
「そりゃそうでしょ。そういう相手じゃなきゃ、場所もわきまえずその夢露先生とやらに突っかかったりもしないはずだよ?」
「そう、かな」
「そうだよ。ま、こんなふうに慈玄を弁護しなきゃなのも癪な話だけどね」
天井を仰いで溜息を吐いた慈斎に、和宏は申し訳なさそうに、だが安堵したような微笑を向けた。
「ん、ありがと慈斎。やっぱ、慈斎が一番話しやすいや」
「……で?」
「え?」
くるりと向き直ったかと思いきや、慈斎は和宏の上にのしかかる。上半身が倒され、堅いスプリングのベッドが僅かに沈んだ。
「俺、人に貸しを作るの苦手って前言ったよね。その逆もね、なんかやなの。和、俺に何くれる?」
するりと手の甲で、和宏の頬を撫でる。押し返しもせず、和宏は身を強ばらせたまま息を呑んだ。
「まっ、前に約束したお弁当とか、じゃ、だめ?」
こんな状況であっても、和宏の提案は本気だ。無論、慈斎が承知するはずもなく。
「んー、それもいいんだけど。やっぱりこうなったら、和本人の方が良いかなぁ」
掌が翻り、指先が首筋を滑り落ちた。互いの額同士、鼻同士が触れあうくらい、顔が近い。
「初めてシた時は和、怨霊に身体乗っ取られてたしさー。どうせならちゃんと味わってみたいな」
唇まで触れるか否か、というところで、慈斎は吐息と共に囁く。
「慈玄に内緒で迦葉まで俺に会いに来てくれたり、今日だっているかどうかも分からないのにここまで来たり。和だって俺のこと『好き』だって言ったよね?」
「っ、だっ、だめだよ慈斎っ!!」
僅か数ミリで唇が重なりそうだったその時、和宏は渾身の力で慈斎を押し返した。即座に身を起こす。
「だめだよ!また慈玄にばれたら慈斎、怒られちゃうし!それに、身体だってまだ治って……」
首元まで真っ赤になって、和宏が慌てる。自分の身を庇うように腕を前に回し。
「まぁ、それもそうか。和とヤッたら、少しは気力がもらえるかと思ったんだけど」
「……え?なん、で?」
問うてはみたが、和宏の脳裏には心当たりが思い浮かぶ。
情を交わすと、お前の温かな気に包まれる……事後、慈玄がそんな言葉を洩らしたことがあった。
好きな相手には触れたい。触れれば、安心感に満たされる。何も快楽ばかりではなく、繋がっているという実感。痛みや羞恥の果てに、和宏もそれは確かに感じていた。
「といっても、和が嫌なら仕方ないか。ここまできて、嫌われるのもねぇ」
肩を落として、慈斎は立ち上がる。もはや和宏に顔も向けようとしない。
「動けるうちに俺はもう一回出掛けてくるから、雨が小降りになったら和も帰んなよ。慈玄が心配するもんね」
ひらひらと手を振って、ドアへと進む背中。
「鍵かけたら、またフロントのおじさんに預けといて。話はしとくか、ら……」
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