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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・18
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「今日は本当にありがとうございました!すっごく楽しかったです」
雨の日の住宅街は、さすがに人気が少ない。平日ならば学生などが帰宅する時刻だが、休日とあっては特に用事のない限り、外出を避ける者も多い。
「いや、俺も楽しかった。またデートしようぜ」
あえて「デート」という言葉を慈玄は使う。向かい合って甘味を味わいながら話を弾ませた時間は、まさしくそう呼ぶに相応しい和やかさだったからだ。
といっても、恋人同士が胸をときめかせる本来の逢瀬では無論なく、言うなれば娘が父親に外食をせがんで出掛ける類のものだ。戯けた慈玄の口調はそれを匂わせたし、恭も十分承知している。「はい、是非」とくすくす笑って応えた様子からも明らかに窺えた。
甘味処での会話の内容は、もっぱら恭の恋愛相談だった。
カフェで断片的には聞いていたが、仕事中かつ内々の耳のある場所では、詳細まで恭は明かせなかったらしい。
伸という婚約者が向ける恭への愛情は、誠実で明確なものに感じたが、やはり恭本人の方がどうにもあやふやなのだ。
「私には、和君も慈玄さんも素敵だと思うので。『好き』という気持ちがよくわからないんです。難しいですよね」
そんなことを口にして、少し困った体で笑うほどに。
伸は「好きだ」と言葉にはしているものの幾分素直でないところもあるようで、要は「亭主関白」を気取りたいタイプなのだと慈玄には思えた。
まだ幼い高校生カップルの歩み寄りが、彼には初々しく、微笑ましい。周囲がとやかく言わずとも、相手に明白な好意が存在するなら徐々に気持ちは育っていくはずだ。
そういえば、和宏と恭は若干似ている。
優先順位がなく、関わった者皆に同等の好意を寄せる。八方美人的と見えなくもないが、当人にすればそれぞれ純粋で、真摯な想いだ。そこが厄介なのだが、「仕方ない」と相手を認めさせてしまう強固さもある。
ただこの二人が決定的に違うのは、和宏のそういう部分が本質的な性格であるのに対し、恭は成長過程の揺らぎである割合が大きいことだ。この先、様々な経験をするうちに自分の気持ちが定まれば、恭はおそらく一人の相手を一途に愛するようになるだろう。
己がその対象となりうるのは拙いと、慈玄は考える。多少受け身ではあっても、彼女には平穏な幸せを手にして欲しいと願う。
「恭ちゃんちって、確か宮城家の近所なんだよな?」
「えぇ。あそこですよ、和君と光一郎さんのお宅」
斜め前の二階建て一軒家を、恭は指差した。
「で、私の家がこっち」
今度は道路を挟んだ向かいの家に。
「お向かいなんです。ほんと、ご近所さんで」
濡れないよう軒下まで傘を差しだし、恭が玄関へ入るのを慈玄は見届けた。
「何かあったら、寺にも遊びに来るといい。和もいるしな?」
「はい、ありがとうございます!」
頭を下げ恭がドアを開いたところ、屋内に男子の姿を慈玄は認める。すぐさま閉じられたが、その僅かな時間で値踏みするように彼は慈玄を睨んだ、ように見えた。
── やれやれ、こりゃ目ぇつけられたか。
なかなかの美形だったが、慈玄から見ればどこにでもいる十代の人間の少年。可愛らしくは思えても、怖れるような相手ではない。
苦笑した慈玄は、不意に後ろを振り返る。
「そういや、まだここには一度も来たこたぁなかったな」
白い壁の、小綺麗な住宅。自分が面倒を見ていた鞍吉が居候し、現在同居する和宏が生まれ育った家。しかし彼にはこれまで、訪問の機会はなかった。
感慨深く見上げるも、ドアホンを押す用もない。
和宏を引き取って、残された二人が睦まじく暮らしているのなら、今更己が口出しすることもあるまいと慈玄は思う。
「んなことより、和ぁまだ怒ってっかなぁ」
携帯電話を取り出し見ても、着信もメールも届いてはいない。詫びを入れようと登録されたアドレスを開き、電話番号をタップしようとしたが、考え直してメッセージ画面を開く。
「……ん?」
灰色の雲が急速に形を変えるような、ささやかな異変を慈玄はその時感じた。雨の強弱は変わらず淡々とそぼ降っていたので、気のせいと捉えてしまったのだが。
慣れた手つきで短文の謝罪を打ち込むと、送信ボタンを押す。
「不安に思ってんなら、すぐ気付くだろ」
── 偶に離れてみると、一緒にいすぎて見えなくなりかけたもんが見えたりするよな?
汁粉を啜りながら、それは慈玄が恭に放った台詞だ。もちろん彼女が同棲している相手を慮って言ったものだが、自分自身をも省みる言葉ではあった。
「さて、と。とっとと帰って直接謝るか」
意を決して口に出し、帰路の一歩を踏み出した時。
「あれ、慈玄じゃないのさ」
傾けた傘を上げると、にやけた金髪の家主が、門前に突っ立っていた慈玄に声をかけてきた。
「光一郎。なんだ、鞍は一緒じゃねぇのか?」
今カフェからの帰りだとするなら、鞍吉の上がりを待っていたのだろうと慈玄は当然のように思っていた。彼はまだ、現在の二人のいきさつを知らない。
「うん、まぁね、色々ありまして。カフェは少し前に退散したよ。ちょっと買い物して、この時間」
微かに困惑した笑みを浮かべて、光一郎は傘と逆の手で持ったレジ袋を掲げて見せた。
「それより、珍しいじゃない。慈玄がうちに来るなんて。和の付き添い?」
「いや、俺もあれから和とは別行動だ。恭ちゃんをここまで送ってきた」
「恭ちゃんを?」
目を丸くして、光一郎は向かいの家の玄関に視線を向ける。
「まぁ、一応話しておかなきゃなこともあるから、上がりなよ。和がどうしてるか心配なら別にいいけど」
光一郎も、カフェでの騒動の目撃者。突っ込んだことは訊かないまでも、一応探りを入れてみたらしい。
「そうだな、せっかくだし少し邪魔するか」
慈玄が承諾すると、誘ったのは自分なのに、光一郎は少し怪訝な顔をした。ドアの前に立ち鍵を開けると、客を招き入れる。
「どうぞ。俺一人だし、適当に寛いでよ」
暗いリビングの照明を点けて、光一郎はキッチンへ茶を用意しに行く。
それを見た慈玄が、今度は不思議そうに首を捻った。ハッチの向こうで湯を沸かす相手に、思わず問う。
「おい、一人ってどーいうこった。鞍はまだ仕事中なのか。それとも、『また』家出でもされたか?」
鞍吉が和宏宛に書かれた光一郎の手紙を読んで宮城家を飛び出した一件の際。彼は慈玄の寺を訪れ、そのことを打ち明けていた。「また」と言うのはそういう訳だ。
「ん。あの家出のあと、やっぱりどうも上手く噛み合わなくてね。俺はちゃんと想いを伝えたし、鞍も分かってくれて今では普通に話もできるんだけど」
相手にソファーを薦めて、話しながら光一郎がテーブルに湯呑みを置いた。
「距離を置いて考えたいんだって、鞍が」
「ってこたぁ、今鞍はどこにいんだよ」
「釈君ち」
「は?!」
最初に鞍吉が家出して転がり込んだ先に、そのまま移住してしまったということだ。
相談を受けた時、しっかり光一郎に喝を入れたと思っていた慈玄だが、それでも光一郎は鞍吉を手放した。残念に感じたのはもとより、彼には別の懸念もあった。
あのカフェの副店長である青年には、気になる事項がひとつ、ある。
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