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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・20
◇◆◇
喧噪を遠くに感じて、和宏は目覚めた。小さなガラス窓には、色とりどりのネオンが滲んでいる。暗いホテルの一室に、慈斎の姿は無い。
備え付けのデスクの上にプラスチックバーの付いた鍵と、メモだけが残されていた。
『フロントには話しておくから、鍵を預けて帰ってね。気をつけて』
用件のみがあっさりと記されたメモを思わず握りしめる。
情事の後眠ってしまい、そのまま顔も見ずに別れることになったのを、和宏は僅かに悔やんだ。おそらく、彼はもうしばらく寺へは顔を出すまい。
今日会えたのは本当に偶然、無理矢理自分が押しかけてしまったのではないかと。
「シャワー、借りても良いかな」
応える相手がいないのを承知で、呟く。
散乱した着衣をまとめると、白い裸体は浴室へ向かった。
スマートフォンの着信を確認したのは、身支度を調えてから。メッセージが届いたのは夕刻だ。内容を目にして、慌てて再び窓に目を遣る。明滅する灯りの周囲は、もはや深い藍色。
「! や、っべ。慈玄、怒ってる、かな」
せっかく先に詫びを入れてもらったのに、帰りが遅くなってまた苛立たせてしまったかもしれない。鍵を掴むと、跳ねるようにして和宏は部屋を出た。
雨は上がっていた。濡れて色の変わったアスファルトから、湿った空気が漂い、宵の街を包む。
住宅街を抜けると、高台にある慈光院へは一本道となる。駅前から走り、息を弾ませて坂道にさしかかったところで背後から和宏に声が掛かった。
「……和?」
振り返れば、見慣れた大柄な影がのそのそと近づいてきていた。
「慈玄」
双方とも遅い帰宅だ。どちらにしても「こんな時間まで何を」と詰問はできない。
「どう、したの?今まで恭さんと?」
先に訊ねたのは和宏。若干気まずいのもお互い様のはずだが、慈玄は笑って首を振った。
「いや。恭ちゃんとは餡蜜食いに行って、夕方には送ってった。お前んちの前だろ、恭ちゃんち。そこでばったり光一郎に会ってな。ついでに色々話してきた」
「兄貴と?じゃあ……鞍、とも?」
予想外ないきさつに、和宏は目を丸くする。
伝えるべきか否か少々逡巡してから、慈玄は口を開いた。
「いや、あの家にもう鞍はいねぇ」
「え?」
光一郎が相談のため寺を訪れた際、和宏は留守にしていた。だが彼がなぜ手紙を所持したままだったのかが気になり、慈玄はそれとなく概要を伝えた。故に、鞍吉の家出騒動は和宏も知っている。
とはいえ、その件は既に決着が付いていると彼は思っていた。今日も今日とて、二人がカフェで親しげに会話していたのを目にしたのだ。まさか彼等がすでに別々に暮らしているとは、和宏には寝耳に水の話だった。
「まぁ、そのあたりも含めて、な」
「そう、だったんだ」
ならば鞍吉が今どこにいるのかも気になるところだが、それを尋ねる前に言うべきことがあるのも、和宏はわかっている。
「帰りづらかったのか?悪かったな」
じゃあお前は今まで何をしていたとは言わず、慈玄は先ず謝罪した。
今度は和宏の方が首を横に振って否定する。
「うぅん!そう、じゃなくて。その……慈斎に、会った」
並んで坂を登りかけた慈玄の足が止まる。
「慈斎?!あいつ、こっちに来てんのか!」
薄闇の中で声だけ聞けば叱りつけるような調子だが、単に慈玄は心底驚いていただけである。急に張った声に身を竦ませた和宏に、「あ、悪ぃ」と一言軽く謝るとそのまま難しい顔で思案する。
その場で身体を重ねたとも言い出せず、相手の次の言葉を和宏は黙って待った。
そもそも身内が近くにいるのなら、気の波動で慈玄にはわかるはずなのだ。
和宏と一時でも揉めたり、傘の事での引け目もあって恭といる間は余計な気配を読まないようにしたり、ということもある。だとしても、慈斎ほどの近しい者ならば気付かないはずはない、通常ならば。
当然、和宏の射精の残滓も淡く感じ取れた。しかし詳細を読み取る作業も慈玄は怠った。やけを起こして誰かに身を委ねることなど和宏に限って有り得ないと信じていたし、今日の流れでは同意なく何者か……例えば夢露……に手出しされたなら、尚更問い詰められる状況ではないと彼は思った。
慈斎がいるとなれば話は変わってくるが、和宏が心を許しているとなると今はやはりそこには触れられない。
問題は慈斎が何故、自分達に来訪の報告もせず動き回っているか、だ。なにしろ、「妖の気質」を汲むには弱すぎる。いつかの中峰のように、何かしら別の気質を纏わせて上手く偽装しているか、それとも。
「慈斎の奴ぁ、まだ万全じゃねぇ、んだな?」
独り言のようだったが、それを耳にした和宏は彼の様子を思い返す。慈斎は、先日迦葉で会った時となんら変わりがないように見えた。
飛行での移動ができないから電車を使ったとは洩らしていたが、その他に疲労も苦痛も見て取れなかった。
なにせ、彼は躊躇いなく和宏を抱いた。気力が失われている状態で性交などするだろうか。無論、その疑問を慈玄にぶつけることなど和宏はできなかったのだが。
頷いていいものかどうかと迷う和宏をよそに、慈玄は誰に言うでもない独白を繋ぐ。
「加えて雨、か。気流を雨粒で落とされちゃ、気配は読み取りづらい……いや、待てよ?だったらありゃぁ」
宮城家の前で、慈玄は微細な違和感を感じた。気のせいかとその時は思ったが。
「和、あいつお前に何か言わなかったか?闇についてなにか分かったとかなんとか」
「う、うぅん、何も」
申し訳なさそうに、和宏は答えた。例のホテルへ行ってみたのはただの気晴らし、うっすらとでも慈斎の「空気」を感じ取りたかっただけなのだし。当人に面と向かって会えるなどとは思いもよらず。あの、一人で迦葉に赴いた日と同じで。
結局和宏は両日とも、彼と顔を合わせることができた。今日に至ってはその熱にも触れ……。再び頭を掠めた情事を、振り払って追いやる。
慈玄の方も二人の間に何かあったと確信に至ったとして、この時ばかりは以前のように問い詰めることはできない。慈斎が「いるかもしれない」場所へ向かったのは和宏の意志で、相手を受け入れたのも同じく本人の意志であるのなら。
「そうか。だが気も読み取れねぇ程度の回復でこっちに来てるとすりゃぁ」
「あ、あの……慈玄?」
更に深く眉間に皺を寄せた慈玄に、和宏はそっと袖を引いて呼びかけた。
「それはともかく。その、今日は、ごめんな?ちょっと言い過ぎた。心配、してくれたんだもんな」
このままでは、タイミングを失うと思ったのだろう。伏し目がちになった和宏を見て、慈玄もようやく愁眉を開く。
「まぁ、な。光一郎に言われたよ。お前に無理させるな、だとさ。あいつはあいつで兄貴として、お前のことよく見てんだな」
今は別々の場所で暮らしているとはいえ、兄が気に掛けてくれるのは嬉しいのか、和宏は「そうなんだ」と小さく零して微笑んだ。
「俺も色々考えさせられたよ。すまなかったな」
くしゃりと髪を撫でた大きな手を、少年はくすぐったそうに受け止める。
「だがなぁ。あいつはどうも虫が好かねぇ。面白がられてんのぁ分かっちゃいたんだが、つい、な」
「夢露先生?」
「あぁ。あれなら慈斎の方がよっぽどマシだ」
点々と連なる外灯が照らす坂道を、二人は並んで歩き出した。寺の門前までは百メートルあまりというところだが、到着するのを惜しむようにゆっくりと。
「じゃあ、夢露先生と比べたら慈斎の方が好きってこと?」
思わず和宏がこんなことを訊いたのは、慈斎と二人きりで会っていたことを咎められないための無自覚な牽制か。だが慈玄は、そちらについては深く探ることもなく。
「好きじゃねぇよ!……ただ、慈斎の方が付き合いも長ぇからまだ理解できる、っていうか、な。お前、学校でもあの保健医と結構親しくしてんだろ?」
以前式で察知したばかりではない。これも今日、慈玄が光一郎から仕入れた話だ。
「和、たまに保健室でお昼とってたりしたからね。夢露も可愛い子が好きだからさ、なにかというと和にちょっかいかけてたし」
以前から自分も少し心配はしていたと、光一郎は嘆息した。
「うん。夢露先生、普段から大体あんな調子だけど、時々なにか背負い込んでるっていうか、寂しそうにしててさ。あ、でも最近はあんまり近寄らないようにしてるんだぞ。ちょっと、見透かされたようなこと言われたから」
寂しそうに……日頃と違う相手の様子を察知しない和宏ではない。こうして傍にいる慈玄は今や、身に沁みて理解している。
見透かされた、というのは引っ掛からなくもないが、あのときの夢露の口振りでおおよその見当は付いた。何もかも承知していながら、じわじわと弱いところを抉るような言い様。
「そ、か。ならいいさ。でもあいつにゃ、ちっと気をつけてくれな?」
「う、うん。わかった」
すっかりと闇に溶けた門の木戸をくぐり、内に入る。
寺の四方には結界が張られているが、そうでなくとも静まり返った境内に足を踏み入れれば、それだけでほっと人心地がつく。
「ただいま」
どちらがともなく、帰宅の挨拶を口にした。互いに伝えなくてはと思いつつ言い出せなかった言葉を、胸に秘め微かに澱ませたまま。
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