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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・21
◆◇◆
「多分この辺り、だよ、な」
雨粒こそ落ちてきていないものの、重い曇天は続く。夏が目前とは思えぬ肌寒さで、この日ばかりはウインドブレーカーのファスナーが首元まで上がっている。
通り慣れぬ住宅街の路地を、鞍吉は歩いていた。
目的地の場所は、美李にこっそり訊いた。簡単な地図まで書いてくれたところを見ると、釈七のように彼がかの男と接触するのを警戒してはいないらしい。呑み仲間だという話だから、当然と言えば当然か。
おそらくはここだろう、という建物は、暗色の壁材がシックなイメージの高層マンションだ。かつて訪問した司のマンションほど広大ではないが、どう見繕っても家賃が安価だとは思えない。
上階部を見上げて、鞍吉はごくりと唾を飲んだ。
囁かれた声は、泥の如く彼の脳裏にこびりついていた。
些末な言葉尻を捉え、積み重なって心の片隅で痼り続けていたこと、それをまるで鮮やかな色のインクでマーキングして思い起こさせるような。
知ってはいけない、知らなくて済むならその方が良い事実があるのは、鞍吉とて百も承知だ。本棚の奥底にあったエアメールを引っ張り出した時と同じ警鐘は、今も耳元で鳴り響いている。
だが。
鞍吉はようやく、閉じこもっていた己の殻から一歩を踏み出したところ。まだ右も左も、安全か危険かさえ分からない状態、だとしても。傍にいると、繋ぎ止めると言ってくれた相手のこと、それも重要な部分を知らないままでは、そんな相手を「護れない」。
そう、護られているだけではいけないと、鞍吉は強く感じ始めていた。
あの男と最初に遭遇した時は、光一郎に護られた。自分のために保健室へ駆け付け、らしくもない怒りをあらわにしてくれた光一郎の言動は頼もしく思えたが、同時に自身の不甲斐なさを思い知らされた出来事でもある。
先日カフェの二階で詰め寄られた際も、結局は釈七が間に割ってくれたのだ。
自分一人で、あいつに対峙しなくては。鞍吉はそう思ってここにいる。
光一郎は無論、同居中の釈七にも秘密で。挑発に、あえて乗ってやろうと。
しかし、いざ近くまでやってくると彼はいささか怖じ気づいた。
「招待する」と言ったのは向こうだが、インターホンを通じて第一声、何をどう伝えればよいものか。思案に暮れ、今日はもう出直そうかと振り向きかけた矢先。
ぽん、と肩を軽く叩かれ、文字通り鞍吉は飛び上がった。
「そろそろ来るだろうと思っていたが。やっぱり、な」
まさに訪ねた先の家主……夢露が、愉快そうに笑ってそこにいた。
「は、はぁ……どうも」
反射的に濃紺色の癖毛頭が後じさりする。
「そう嫌そうな顔をするなよ。せっかく来てくれたんだ、歓迎するよ」
空いた距離など無意味だった。夢露はすっと鞍吉の横に立ち、背に腕を回す。抱かれた鞍吉の方は毎度と同じく、小さく震えると身を強ばらせた。やや強引にエントランスへ案内する夢露に、そんな彼を気にする素振りなどない。
「硬くなるな。あまり怯えてると悪い事してる気分になるだろ」
「お、怯えてなんていませんけど。まぁ、前科があります、から」
精一杯の皮肉を込めて、鞍吉が嘯く。
「ん?はは。ちょっと悪戯が過ぎたかな。信じてはもらえないだろうが、ああされれば光一郎先生への想いが少しは確かめられるんじゃないかと思ってな」
── あんな有無を言わせねぇ悪戯があってたまるか。
言い返したくなった鞍吉だったが、視線を落として反論を呑み込む。
「そうですか。そういうことにしときますよ」
「それはどうもありがとう」
下がったつむじに唇が触れた気がして、彼の竦んだ首が尚更縮こまった。
エレベーターで上がった先には他のマンション同様各部屋の玄関扉が並んでいたが、その間隔はやたらと広い。釈七のマンションと比べても、隣室との距離は倍以上と言って良い。
「どうぞ。ここが俺の家だ」
鍵を回しドアを開けると、夢露は抱き寄せた来訪者の背を押し中へと導き入れた。
「お、お邪魔しま、す」
室内には、モノトーンのモダンな調度品が並ぶ。形はシンプルなのが多いが、質の良さは素人目にも見て取れた。とりわけだだっ広いわけではないがゆとりのある空間で、高級感が漂っている。
主は何を考えているか分からない胡乱な人物だが、司の部屋で感じたような無機質さがここにはないことを、鞍吉は心底意外に思った。まがりなりにも生活感が見え、温もり、とまでは言えないが人の温度のようなものが存在している。
「まぁ座れ。コーヒーでも淹れよう」
「いえ、あの……お構いなく」
黒い革張りのソファに鞍吉は腰を下ろした。程良く身体が沈み、心地良い。
「学校での一件以来、お前の事が気になってな。美李のカフェで働き始めたというから、あの日様子を見に行ってみたんだが」
良い豆を使用しているのだろう、運ばれてきたコーヒーは豊かで深い香りを放つ。申し訳程度に口を付け、斜め向かい側に座った部屋の主を鞍吉は睨め付けた。
「で、あの騒ぎ、っすか」
てっきり和宏にちょっかいをかけにきたと思ったが。そう言外に含ませる。
「ん、宮城だけを見てたと思ったか?あいつは俺のこと良く知っているから、話し相手になってもらおうと思っただけだ。むしろ見ていたのはお前の方だよ」
感情の読み取れない仮面のような笑みを、相手は浮かべた。
実際この男が、誰に視線を送っていたかなど分かりようがない。着席してから和宏に声をかけるまで、店内を見回していた動作も無かったのだし。
ただ、彼がハッチの奥にいた自分には一瞥もくれなかったことを鞍吉は覚えている。光一郎と話していたときはあえて自分も目を逸らしていたが、どう考えてもこちらを窺っていた様子は感じ取れなかった。
サンドイッチを作って厨房から出たところを立ち塞がれた、あのときまでは。
だが、カフェの二階で詰め寄られた時、まるでつぶさに観察していたかのようなことを言われたのも事実だ。光一郎と穏やかに会話していたのも、釈七の態度も。
「まだ迷っているようだな、お前」
ぽつりと投げかけられた言葉を、否認する自信もごまかす余裕も鞍吉にはなかった。
「へっ?!……は、はぁ、よくおわかりで」
もごもごと返答し、口元をカップで隠す。
「ふん、少しは考え方が変わったかと思ったが。あれからなにも成長してはいないんだな」
「え?」
一人がけの椅子から立ち上がり、夢露は鞍吉の真横に移動する。完全に密着しそうになる身体を、鞍吉も腰をずらして離れた。
「それで?どちらに触れられる方がお前の心は揺れるんだ?」
背けた顔に夢露の手が伸びる。くい、と顎を掴むと、鞍吉の顔を自分の方へと向けた。濃い赤色の沈む瞳からは、どうしても逃れられない。
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