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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・22

 赤……その色を見て、鞍吉の頭の奥で慈玄の声が微かに響く。 「稲城の施設にゃ、瞳の色が普通の人間と違う奴等が結構いただろ?ありゃ大抵、元妖だ」  ……まさか。  鞍吉はまだ、すべて信用してはいない。そんなものがそうあちこちにいるはずがないと。  己にも似た、瞳の色。しかしその意味を目の前の相手に尋ねることもままならず、鞍吉の口から溢れたのは、問われたことへの応えだった。 「いや、その。はっきりとは、まだ……」 「へぇ?もしかして、触れられて心迷うのはあの二人だけではなかったりして、な」  顎を持っていた指先が、するりと頬へ這い上がる。強い拘束もないのに、鞍吉は蛇に睨まれた蛙同然、身動きが取れない。 「っ、そんなこと、ありません!」  辛うじて否定を口にする。 「はは、そうか」  が、瞬間、ひたすら愉快そうだった相手の微笑に加虐的な気配が浮かび上がったように見え、悪寒が背筋を駆け上がるのを彼は覚えた。 「ならば俺が触れても、そういう気にはならない、ということだよな?」 「え、えぇ、もちろん」  鞍吉の目線が泳ぐ。  たとえ今目の前の男に触れられても、沸き起こるのは拒絶感のみ。心の動きなど、伴うはずがない。過去の保健室での出来事を考えても。 「好き、という感情が無くとも。ドキドキと昂揚することもない、か」  彼の動揺を楽しむように、夢露の指は輪郭をなぞる。ぞっとする冷たさで。 「それ、は……」  指先から逃れようと、鞍吉は顎を引いた。しかし夢露の言葉は、否応なしに彼を縛り付ける。真綿で締め上げる如くゆっくりと。 「嫌だ、と思ったままでも、何かが違い、変わってくれば『好き』になるかもしれない。お前はそうはならないか?」  沿わせた指先から、ぴくり、小さな震えを鞍吉は相手に伝えてしまう。指摘が「違うとは言い切れない」と暗に認めている。  実際、彼には思い当たる節があった。  いきなり抱きすくめられ、跳ね返せないまま身体を許した光一郎。  悲嘆に暮れ泣き叫びながら、「傍にいろ」と塞がれた唇でその思いに縋った釈七。  吸い込まれそうな瞳に誘導され、優しさと寂寞を垣間見たキスを受け止めた司。  誰のことも、鞍吉は拒めなかった。それどころかいつしか気持ちは、彼等への好意となった。改めて問われれば、気持ちが先だったのか行為が先だったのか、もはや鞍吉にはっきりと断定する術はない。 「俺には……よくわかりません」  俯いた鞍吉の横顔を、夢露の唇が追う。数ミリと離れていない耳元で、呪縛の低音は尚も紡がれた。 「触れられ感じるイコール好き、ではないが、触れたいと思うのはイコール好き、ではないのかな?」  軽く食まれた耳に、怖気立つよりも別の感覚が走る。ドライアイスで火傷するような、倒錯した、熱。 「そっ、そりゃぁそうかもしれません、けどっ!」  除けようとし首を振った途端、再び正面から互いの目が合った。  光一郎や釈七に見た、影は夢露にはない。そこにあったのは、虚ろで深い、すでに脈打たぬ澱んだ血液のような昏い、紅。 「だったら、わかるよな?俺が触れているのも」  存外に強い力で、夢露の掌がソファの背もたれに鞍吉を押しつけた。じんわり体重をかけ拘束し、唇が重なる。ねっとりと重く絡む舌は、鞍吉から呼吸を奪った。 「んぁ……っは、ぁ……はぁ……あ、あなたが……俺を好きだ、とでも言う、んすか?」  今までキスを交わした相手は、そう言った。 「お前が好きだ」と。すんなり信じるまでには相当の時間が掛かったし、未だに信じて良いのか惑うことが、鞍吉にはある。  だがこの時に至っても、相手の声に温もりは無い。淡々と、事実解説だけをする単調さで。 「違うのなら、こんな事はしないさ。ただし『好奇心』という名の好き、だけどな?」  言いながらも重厚なキスは、幾度も執拗に繰り返される。言葉の内容と不釣り合いな、冷えた熱を帯びて。  僅かな継ぎ目を縫って、鞍吉は呼吸と共に反論を吐き出す。不十分にしか排出できない二酸化炭素の代わりか、目尻から涙が溢れ落ちた。 「ん……っふ、ぁ……は、こうきしん、て。俺、は……そ、んなめずらしい、ものでも何でもな……っ!」 「珍しいさ。瞳の中に色んなもん渦巻かせて、壊れるのに怯えて生きてるなんて、な。十分に、興味に値する」  腰の下に、腕が回る。引き寄せ抱き締められそうになり、鞍吉の裡で何かが弾けた。  否、相手の体温を拒んだのではなく。  辛うじて突き放し、ソファから転げるようにして身を離した。 「こっ、壊れるのなんか、怖くない!」  夢露は彼を追わなかった。ただ静かに蔑むような、憐れむような視線を投げて。  鞍吉の目も、もう眼前の相手を見ていない。続く叫びももう、誰に向けているのかも定かではなく。 「別、に俺は、そんなの、怖れてなんかいない!降って湧いたように今は周りが優しくしてくれて、有難いって、嬉しいって思った、思ってるけど……こんなものは錯覚かも知れない、すぐに終わって掌を返したように皆また離れていくんじゃないか、って、いつだって構えてるんだ、だからっ!」 「だから、壊れても平気だって?無理だろうな」  震えを止めようとしてか自らの胸あたりを爪が食い込むほど握り、空虚な視線を彷徨わせていた鞍吉に、再び夢露は静かに近づいた。改めて腰に手を添えても、すでに振り払われることも無く。 「そんな追い詰められた小動物みたいな瞳でよく言えたもんだな。そりゃあ、周りも気にしたくなるわけだ」  低く囁く口元を、鞍吉はぎり、と睨む。抵抗は何の意味も為さない。今の彼は、言葉の檻に捕らわれ切り捌かれるのを待つ獣のようなものだ。 「そんなに睨み付けるなよ。俺は心配してやってんだぜ?光一郎や釈七には伝えたのか?独りではもういられないって。自分がどれほど弱く、甘えているか」  後ろへ回った手が、ウインドブレーカーとシャツの裾から忍び込み、すぅ、と鞍吉の背筋を這い上った。ようやく彼はその冷ややかさに戦慄する。が、見えない縄で拘束されているかのようで、身体を捩って回避することさえままならない。 「っ、ぁ、甘えてるのは、わ、分かってる。このままじゃ、いけない、ってことだって。でも……っ」  釈七と同居していても、光一郎のことは常に気に掛かる。迎えに来て欲しい、様子を見に宮城家へ立ち寄った自分に行くな、ここに戻って来てくれと言って欲しい。期待というよりも我欲は、いつも鞍吉の裡にある。  一方で、一緒に暮らす釈七にはもっと明確な形で自分を繋いで欲しいと願う。釈七を、彼だけを求めていると自覚できるよう。迷いなど断ち切って欲しいと。  鞍吉の心情を、夢露は冷徹な指摘で刺し貫く、寸刻みにしていたぶる如く。 「でも、二人の間でふらふらしているんだろ?贅沢だな。それとも気を使ってんのか、怖いのか。本心はあるだろうに」  指は背を撫で続けた状態で、不意に密着した舌が鞍吉の耳朶から首筋へと滑った。獲物の味見でもするように。 「っひぅっ!」  彼はまだ堪えている。もう一度押し除けて玄関まで走り、ここから立ち去るべきなのだろうが、完全に足が竦んで動かない。こみ上げる感情は押し留められず、涙と共に苦痛の肯定が喘ぎ漏れた。 「は……そ、そぅ、だよ。俺は、ただ……わがままで、欲張っているだけ、だ」  夢露の冷たい愛撫で、無理矢理心に押し込んでいた恐怖が鞍吉の中に呼び起こされる。 「怖い……怖い、よ。俺は、独りじゃないことを知ってしまった、のに……また、独りに戻るなん、て」 「そうだな、お前にはもう戻れない。だが結果的にそれがまた独りを招いているとは思わないか?何がきっかけで人が離れるかなんてわかったもんじゃない。気持ちなんて、確かめようがないからな。お前自身が覚悟していると『思い込んで』いたように、な」  震え怯える鞍吉を包み込む優しさなど、ここにはない。夢露が構えているのは、とどめを刺すための最後の刃だ。

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