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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・23

「いや、だ。そんなの、嫌だ……そんな時が来たら、俺は、本当に壊れてしまうかもしれない」 「あぁ、それがお前の今現在の本心だ。しかしお前、ここに釈七の秘密を訊ねに来たんじゃなかったのか?」  いつの間にか捲り上げられていた上衣から、なめらかに筋肉の隆起した腹が覗く。足の付け根までの窪んだラインを裂いて指を這わせ、夢露は尚も思い低音を鞍吉の耳へと流し込む。 「教えてもいいが、今のお前では知った直後に壊れてしまうだろうな。いいか、所詮今のお前では、誰一人『護れない』」  聞かぬまでも、鞍吉はこの一言で完膚なきまでに打ちのめされた。剥いた牙はもがれ、睨み返すこともできず。 「安心しろよ、壊れたら俺が拾ってやる。……が、その前に辛うじて燻ってる気持ちを潰さないよう、お前自身はなにかしようとは、したいとは思わないのか?」  問いかけられても、とどめの一撃を受けた鞍吉に、もはや正常な思考はできない。  彼がかつて己の前世……過去を知った時と同様に、深い混沌の渦が彼を呑み込んでいた。刺された場所から血が滲んで流れるように、じわじわと精気を失ってゆく。 「なに、か?……わからない。そもそも、誰かに好きになってもらうのだって慣れてなかった、んだ」 「そうか。ずっと独りだったことを理由に、わからない、何もできない。それじゃ苦しいだろうな、周りの者が」  鞍吉の素肌を撫で回していた掌が離れ、ガラス器でも扱うような丁寧さで鞍吉の頬を覆った。話す速度は至って穏やか、正面に向き合わせた表情も柔和な微笑であったが、発せられた声だけは変わらず凍り付くまでに鋭い。 「……あんたなら、分かるっていうのかよ?」  覇気を失った鞍吉の問いは弱い。最後の命乞いでもするような、怯えきった懇願。しかし夢露が応じることはなかった。 「さぁ?お前がすべてを信じられるなら。真っ直ぐ見つめてやらなきゃ、誰だって応えようがない」  涙の伝った頬へ置かれた手に、力が加わる。顎を吊り上げ上を向かせ、潤んだ赤を乾いた紅が覗き込み、凝視した。 「……お前。相手の言葉を全部疑ってかかるだろ」  貫かれた胸の傷を、更に爪で抉り出す一言。鞍吉の瞳から、完全に光が消えた。 「そ、んなこと……は……」 「図星、か。光一郎先生があんなに必死だったのも、釈七がお前を心配そうに見つめていたのも、司や蓮だってそうだろう。ちゃんと見ているのか?いないよな。お前は、ただ流されているだけ。今ここでこうして、俺のされるがままに流されているのと一緒だ」  引きつった口端に、鋭い牙が剥き出したようだった。吸血鬼よろしく夢露は、鞍吉の無防備な首筋に歯を立てた。くっきりと痕はついたが、血は流れない。代わりに滴ったのは連なる空虚な涙。 「っは……ぅ……っ!なぁ……もし、あんたが知ってるなら、教えてくれよ。俺は、どうしたらいい?どうしたら、誰も苦しめなくて済む……?」 「それを俺が答えていいのか?だったら、ここに閉じ込められて、俺だけを見てそれ以外を見るな。他の誰にも会わず、どこへも行かず。そんな風に言えば、お前はその通りにするのか?」  光の喪失した目がゆっくりと見開かれる。  仮に夢露の言いなりになったとしても、それは以前鞍吉が釈七に求めたような処遇とはまるで違う。繋がれ、籠の鳥になっても到底この場所は彼の「居場所」にはなり得ない。  夢露にとって彼は「興味」という名の観察対象でしかなく、自我を奪い、人形のように扱われるだけ。だがそれこそが、鞍吉自身「己はそうしなくてはならないのでは」と長らく考えていた姿。存在こそ残れど、周囲の手を離れ、想いを消し、「いてもいなくてもいい」抜け殻。  やはりそうするしかないのかと、鞍吉は思う。  そうしてこそ誰にも迷惑をかけず、苦しめず。 「……あ……」 「やれやれ、まったく進歩がないな。初めて逢った時と、お前はなにも変わっていなかったわけだ。誰の想いも、何もお前には届いていない。カフェでの様子から多少は考えを改めたかに見えたんだが、期待外れだったな」  腹の半分以上が露わになるほど捲られた鞍吉のシャツを、夢露は上着ごと一気にむしり取った。部屋に入ってから少し下げた首元のファスナーが、ビッと鈍い音を馴らして頭を通過する際こじ開けられる。頬に引っ掛かって、薄い擦り傷を創った。  晒された生白い上半身に跨がると、夢露は鞍吉の上に覆い被さる。先程噛んだ首の痕から鎖骨を食み、胸元をまさぐると微かに痼り始めた乳首を摘まんで捻り上げた。 「……ぅぐ、ぁあっっ!!」 「これで満足か?お前はいまだに、自分が誰が好きかさえ分からず……いや、『好き』という感情すら曖昧なまま身を預けてる。相手の想いなど受け入れようとせず疑ったままで、快楽のみを欲しているということだ。なら、俺でも構わないだろ?相手など誰でもいいのだから」  違う、とはもう、鞍吉には言えない。反らせた背を落として涙と共に深く息を吐き出すと、上に乗った身体を押し返そうと持ち上げた腕を、だらりと床に投げ出した。 「そう、だな。俺は、皆の想いを受け入れる術なんて知らない。そんなことも分からずに、弄んでいただけなんだ。……いいよ、好きにすれば良い」  僅かに残った力も抜け落ちた空っぽの身体を、しばし離れ片眉を上げた夢露が見下す。寸時の間の後、くくっと喉の奥から笑い声が漏れた。 「つくづく勝手な奴だな。せっかく自覚させてやろうと思ったのに。お前が傾けた、周りを想う気持ちなんてものはその程度だったと」  鞍吉に跨がった状態で夢露が身を屈める。脇に置かれたテーブルの下に手を伸ばすと、何かを掴み取り指を動かした。どうやらスマートフォンのようだ。こんな状況において至って不自然な動作だが、鞍吉がそれに気付くことは無論なかった。 「ならば、好きにさせてもらおう。今度こそお前の望み通りに、な」  機体を置いた手は、鞍吉の下半身へと移る。ボタンを開け、ファスナーを下ろし、下着共々ずらされ。  露出した肌はもう、暑さも寒さも感じない。パンツから足が抜けたようにも感じたが、自分の恥ずかしい部分が一体どこまでさらけ出されているのか、鞍吉には判別もできなかった。  屈辱的な行為であっても、敏感な身体は正直に反応する。  背を支えられた姿勢で胸元に落とされた唇は、幾つもの赤い斑点を記しながら鞍吉の肌を滑った。決して粗雑では無く、じわじわと責め立てるような丁寧さで。  つんと上を向いて腫れ上がった胸先の突起に、軽く歯が立てられる。先刻抓り上げられたそこは、鈍い痛みを鞍吉に走らせつつも下半身の熱を昂ぶらせた。 「……っふ、ぐ、ぅう……っ!」 「いいんだぜ?そんなに唇を噛んで声を堪えなくても。誰の名でも呼べばいい。助けに来て欲しい相手でも、俺の名でも」  感じるはずのない相手に触れられ、意思と裏腹に熱を孕んで膨れあがった陰茎。その熱の塊を夢露の掌が包み込む。やわやわと撫で擦られたかと思えば、拒みたいのに自然と溢れ来る蜜を塞き止めるかのように、先端に爪先を強くねじ込まれる。 「……ぅ、んぁあああぁっ!!ぅぐ……っ!」  悔しさに涙が流れ、噛みしめた下唇に尚力が入る。ぷつ、と裂けると血が滲み、見る間にじわりと紅く染まった。 「呼べやしない、か」  夢露が手を休めることは無い。乳首を舌で転がし、直ぐには絶頂を迎えない程度に陰部を扱く。  あるいは、何かを待っているかのように。

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