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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・27

「そーいうこと言わないの。またね、でしょ?言っとくけど俺、ストーカーだからね」  釈七が呆れたように嘆息し、鞍吉は不思議そうに首を傾ける。  常日頃ならば双方口を揃えて突っ込むところだが、この時点でのジョークは浮き気味だ。むしろ光一郎自身が、無自覚にも決断を逸ろうとする鞍吉の気持ちをもまとめて冗談にしてしまいたかったのだろう。 「今のは、聞かなかったことにするからね」  悪びれもせず笑って、背を向けた。曇り空の下、色濃く生い茂った緑の影に光一郎の姿が消えるまで見送ると、釈七がやはり何事もなかったかのように穏やかな声で言った。 「じゃあ、行くか」 「うん。晃も、ごめんな」  鞍吉は釈七には目を向けず、光一郎が去った方向にある顔を俯かせている。 「なに謝ってんだよ。いいって、俺はなんとも思ってねぇよ。お前が夢露に言われたこととか、信じられてねぇとか、不安にもなってねーし」  横に並んだ状態でぎゅっと肩を引き寄せたが、一瞬の後少しだけ、力を緩めた。鞍吉の手にしていたジュースの空き缶をするりと抜き取る。 「だから、気にするな」  鞍吉が、顔を上げた。  しかし釈七とは目が合わなかった。同じ方向を見たままの横顔を彼は怪訝そうに眺める。  夢露から聞き出すはずだった釈七の秘密は、とうとうほんの一部でさえ鞍吉には語られなかった。  先日のカフェでの言い様からすれば、かなり重大な事項であるのは間違いない。以後彼等の関係にも影響するほどの。  おおかたあの保健医は、鞍吉の脆弱な部分を的確に掴んでいる。「誰も護れない」というのならいっそ、すべてを明かして現実を叩き付け、それを決定づければ済む話だった。ところが、夢露は敢えてそれを「避けた」。  単に呼び出す口実だったのかもしれない。が、そもそも夢露の言動には矛盾が多い。  想いを確認させたかったと言いながら不信感を煽るような真似をしてみたり、「捨てられたら拾ってやる」とまで口にしながら、光一郎達に連絡を入れわざわざ迎えにこさせたり。  無論、今の鞍吉にそこまで思考を巡らせるゆとりはない。  ただ温厚に微笑みながら冷酷な声を放つ保健医に、えも言われぬ違和感を感じるのみ。それに……隣に立つ、好意はあるもののまだ知らないことだらけの同居人にも。 「晃は、強いな。いつも変わらずにいてくれる」 「ん?何がだよ。俺はそーいうのに鈍感なだけじゃねぇかな」  釈七の苦笑顔から視線を外し、鞍吉はまた下を向く。口を引き結び、相手の袖を握って。 「そんなこと、ないよ」  笑みを引いた釈七は、そこでようやく若干俯瞰になる鞍吉の顔を見た。声のトーンが落ちる。 「……いや。俺は、こういう風にしか接してやれねーんだよ。光一郎みたいに、お前と同じ目線で、同じように苦しめない。どっちがお前を辛くさせるのかもわかんねぇけど」 「ん、どっちも嬉しくて、どっちも、ちょっと苦しい」  おさまったと見えた涙が、目尻に膨れ上がる。今度は、声を伴わず密やかに、通り雨の如くぽつりと一滴。  これは、釈七の性質だ。  酷く動じたりせず、やたらと介入せず。同調はできない、と言うがだからといって薄情でも冷淡でもない。  まさに光一郎が「信じられなく」なった際、鞍吉が求め、救われた態度。しかしいざ一緒に暮らしそれに触れ続けていると、光一郎の愚直すぎるまでの優しさが恋しくなる。  贅沢だと、鞍吉は思う。  夢露の指摘は、誇張でもなんでもない。何が真実かもわからない、知ろうともしない。そのくせ必要な時に必要な「優しさ」だけを欲し、度を超して与えられれば、今度は疑う。疑えば他方に逃げ道を求める、だからどちらにも離れて欲しくない。  自分がいかに無茶苦茶で欲張った願望を懐き、彼等を振り回しているか鞍吉自身よく理解している。夢露の言い分は至極真っ当なのだ。なればこそ彼は、己を責める。しかし責めるのみで、対処の仕方は思いつかない。  たどたどしくも隣の釈七に、それらを伝える。 「俺、やっぱ、よく分からない。頭の中ぐるぐるして、考えれば考えるほど、答え出なくなって……っ!こんなこと、晃に言っても仕方ない、のに……」  降ったり止んだりする梅雨空と同じく、涙は再びぽろぽろと溢れ出ていた。先程のような激しい号泣にはならないが、いつ晴れ渡るのか見当も付かないほどの厚い雨雲に覆われたように。 「光一郎にもう泣かすなって言われたのにな」  軽く頭を掻いた釈七が、ふっと大きく息を吐く。 「鞍、ちょっと」  やや強引に、鞍吉の手を引いた。小雨の落ちそうな夕暮れ、人影はすっかり消えている。  一帯に残されたのは彼等二人だけとさえ思われたが、尚も人目を避け申し訳程度に植えられた樹木の裏へ連れ込むと、釈七はすかさず鞍吉の唇に自分のそれを押しつけた。 「晃?」 「鞍、ちゃんと、愛してるから」  啄むような口付けを、何度も交わす。涙で霞んだ瞳の向こうにある表情は、この時の鞍吉には読み取れなかったが。 「答えが出ないなら、考えなくて良い。光一郎も言っただろ?感じろって。今のお前に、誰かのことを案じたり配慮したりする余裕なんてないのは、俺も光一郎も知ってる。だから良いんだ。すぐに答えを出さなくても。共に歩んで、感じて、想いを伝えてくれればいいから」  抱き寄せ抱き締めた腕が、少し震えたのを鞍吉は背に感じ取った。釈七にしては珍しい。昂ぶりというよりは、逆に裡に秘めた何かを抑え込む様子。 「心配、かけやがって……」  こんな言葉を洩らすことも、普段の釈七にはめったに無い。あの日、カフェの二階で言われた「夢露には近づくな」との忠告を破ってしまったのを、今更ながら彼は後悔した。 「っ、ごめん、なさい……っ」 「いや、いいんだけどよ。俺が心配した事だけは、わかってて欲しいんだ」  わかってくれ、と言いつつ釈七本人が己に対し確認しているふうな口調でもあった。だがそこまでは言った方も言われた方も気付かずに。 「独りで苦しむな。お前の不安、俺にも分けろよ」  そして、もう一度深く口付ける。  夏至が近づき日照時間は延びたが、曇天のせいで既に薄暗い。その暗がりに繋がり合った二つの影が、完全に溶け込んでしまうまで。

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