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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・28

*  小雨が窓ガラスを叩く。  水滴と灰色の霧に遮られた視界の先は、木々の緑も黒く塗りつぶされたようであったが。コーヒーカップを手に、彼はくすんだ景色をぼんやり眺めていた。 「で。結局鞍君には話したんですか?釈七のこと」 「いや。到底そんな気にはなれなかったからな」 「それはよかった。いくらなんでもあなたの口から先に彼に知れるのは、私としても快くはありませんしね」  カフェ「sweet smack」の執務室。壁一面に吊された華やかなフリルやレースの衣装に囲まれ、二人の男が会話をしていた。  部屋の主であるカフェオーナーは中性的で、洒落た眼鏡の奥にある両目は終始笑みで細められているが、腹の裡は表情ほど柔和ではないらしい。 「どこぞの田舎の天狗も、厄介なことをしてくれたものです。これまでなんとか平和に過ごせていたのに」 「あぁ、明らかに『おかしなもの』が混じった。あいつらも承知していただろうに。まったく、悪食にも程がある」  苦笑交じりに吐き捨てられた言葉に、一瞬、細めていた目がやや侮蔑を含んで開かれた。 「彼等はそもそも、あなたが内包していたものでしょう、夢露」 「だが、つい最近まで俺の闇を喰らうだけでろくに単独行動もままならなかった。実体を伴って動き回ることはあっても、俺の目の届く範囲でな。それはお前だって分かっていただろう?」 「えぇまぁ。ですが、たとえタチのよくないものだとしても、僅かに散った異質の闇を取り込んだくらいで昔の力を徐々に取り戻されてはね。あなたの監督不行届、と言われても否定できないのでは?」  剣呑に言い合ってはいるものの、オーナー……佐久間美李の声音は至って穏やかだ。窓際に立った夢露にはろくに目もくれず、ソファに腰掛け自らの淹れた紅茶を啜る。  彼等の関係は実に複雑だった。腐れ縁といえばそうであるし、同調しているようでも敵対しているようでもある。  だが一見、気の置けない同士のように同室で茶を喫しているのは、どちらにとっても特別であった一人の「巫女」の存在が繋いでいるから。 「大事にはならぬよう、目は光らせておくつもりだが?」 「どうだか。結局あなたは、何も感じてはいないのでしょう」 「……感じてはいけないんだよ、俺はな」  階下で、赤い傘の花が咲いた。カフェの客のものだろう。なんとはなしに目で追ってから、夢露は美李のいる方へ顔を向けた。視線の先の相手は、変わらずカップの水面に目を落としている。 「にしては、ずいぶん強引に鞍君に近づいたようですがね」 「俺のマンションの場所を教えたのはお前だろう」 「教えて欲しいというのを、私が無碍に断るのもおかしな話でしょうに。彼に対して、思うところがあるからわざわざ誘導したのでしょう?」  コーヒーを飲み干し、夢露はふんと鼻を鳴らす。そこで初めて、美李は彼の顔を見た。 「まったくの期待外れだ。あれでは、釈七のことを吹き込まなくても勝手に壊れる。あいつらが手を出す前に、な」 「そうでしょうかね。確かに、闇の多い子です。目を付けられればひとたまりもないかもしれません。とはいえ、本当はあなたも望んでいないのではないですか?鞍君が自滅することも、彼等に簡単に『喰われる』ことも」  夢露はもう一度鼻を鳴らす、余裕綽々の体で。しかし否定も敢えての肯定もしないのは、この男にささやかな迷いが過ぎったからだ。 「結構ですよ。それについては私も同意です。あの子には、私にとってもまだまだ『利用価値』がある」  内心の全く伺えない微笑を、美李は夢露に向ける。 「なんにせよ、害を被りそうなのは鞍君ばかりではないですからね。蓮や司もいますし、それに……」 「……宮城、か」  台詞の続きを受け継ぎ、その名を口にした夢露に初めて、やや憂いの色が滲む。  彼等が「厄介」と称した「異質の闇」は、宮城和宏が例の巨漢の住職……無論双方その正体を知ってはいたが……と近しくなった後に生じたものだ。当然、あの二人の出逢いに要因があるのは見透かしている。そして彼等が和宏と初めて対面したときには、ほとんど気にも留めなかったある種の「気質」。それがじわじわと明確になりつつあるのを感じている。  どこか懐かしくも、今更なんの効力も発揮しないであろう、それは……。 「面倒ですね。こんなことならさっさとあなたを殺してしまうべきだった。彼等はあなたを殺さないと消えないのに、あなたを殺させはしないのですから」 「物騒なことだな。なんなら今からでも遅くない。試すか?」 「まさか。もう情も移ってしまいましたよ」  ふふ、と小さく笑い声を洩らし、美李はティーカップを置いた。 「それに、『彼女の願い』でもありますし」  彼女。  永い年月を経てなお、美李が忠誠を誓う巫女。夢露にとっては…… 「いずれにせよ、彼等が暴れ回るのは不利益。私は私で手を尽くします。おそらく何もできない、あなたに代わってね」  ポットから美李は、茶を注ぎ足す。再び目を伏せ、口も噤んだ。  主の視界に入ったかどうか、空になったコーヒーカップを軽く掲げて、夢露は真っ直ぐドアへと向かった。

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