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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・30

 顎に手を当て、しばし精神を研ぎ澄ます。  買い物ではない。なにか別の目論見があって慈斎がここへ足を運んだのは明白。探っていることならば今はただ一つのみ。  とはいえ、それらしき「闇」の気配はまったく感じ取れない。  広大な敷地に、多くの人。中には妖も元妖もいる。僅かな割合であるそれらの「気」は拾えたが、まぎれもなく現状の己等と関わりないものだ。  中峰が警告した類であるならば、確実に自分たちか和宏に意識が向けられる。そんな様子は一切見えない。  こうなれば直接慈斎を問い質すしかないが、和宏の前では明かさないであろうことは、先程の目配せで慈玄も理解した。  我が身に降り注ぐかもしれない災いの話なら、和宏も知っている。なにしろ中峰から直接啓示されたのは、他ならぬ和宏自身なのだから。  それをわざわざ黙っているということは。 ── もしや警戒させないため、か。  回復を待たず慈斎が出張ってきているとすれば、彼にはすでに「予兆」とでも言うべきものの見当はついているはずだ。だが慈斎に拾えている気配を自分がまったく読めぬというのは、慈玄には納得し得ない。いくら相手が情報の獲得に長け、自らが下界の空気に馴染みすぎていたとしても、だ。  つまり。自分達が用心すべき「闇」とは、これまであまり触れたことの無い類。経験からでは非常に掴みづらい可能性がある。  そんなものがかの怨霊……一時といえど和宏に憑き入り、不十分な浄化で散った……に導かれているとすれば、和宏が意識すればするほど、容易に現れにくくなるかもしれない。ましてや知ってか知らずか、「それ」と同調しているのが和宏の縁故であるならば。  いつか遠目から見た、カフェオーナーの顔が浮かぶ。そして、保健医だというあの男。 「ねぇ慈玄、これ、どうかな?慈斎が俺にいいんじゃないか、って!」  思考の没入から呼び戻す声に、慈玄は顔を上げた。駆け寄った和宏が自らの胸に合わせていたのは、少しぴったりめのシルエットのTシャツと、ベストのアンサンブルだ。  細身の体型を気にしてか、通常和宏は身体の線を見せる服を着たがらない。バイト先での衣装は仕方なく着用するが、普段着はもっぱらシンプルな男性ものなので形状はゆったりめだった。  袖は通していなくても、見るからにその服のラインはジェンダーレスな雰囲気を漂わす。自分では決して選ばないだろうに慈斎が薦めればいいのかよと、慈玄は苦笑を禁じ得ない。が、悔しくも実によく似合っている。 「あー……いいんじゃねぇ、か?」  複雑な笑顔で応えたが、和宏の方は最大の賞賛を受けたかのように頷いた。 「そっか!んじゃ、これ買ってくる!!」  スキップでもしそうな足取りで踵を返した和宏と入れ替わりに、袋を手にした慈斎が戻って来た。 「いやぁ、誰かに服を選んでもらうのも、誰かの服を選ぶっていうのもなかなか楽しいもんだねぇ」 「うん、ありがと慈斎!」 「いえいえ、どういたしまして」  すれ違いざまに言葉を交わして、和宏が奥のレジへ向かう。見送った後妙に歩みを遅くした慈斎に、慈玄の方から近づいた。 「どこで教わったんだよあんなセンス。どこぞで引っかけたおねぇちゃんか?」 「やだなぁ、慈玄じゃあるまいし。独学だよ、雑誌とか見てね」 「は、暢気なこった」 一通り軽口の応酬をしたあとで、二人は声を潜めた。 「で。なにしに来た?まさか本当に買い物に来たわけじゃねぇだろ?」 「まぁね。ぼんやりだけど、異質なものが感じられるようになった」  緊張が走る。真顔に戻った慈玄の眉が、ぴくりと上がった。 「この間、和が俺と会ったことは聞いた?」 「まぁ、な」 「店の中だってのに、学校の保健のセンセイとやらとやりあったそうじゃない。暢気なのはどっちなんだか」  ぐ、と言葉を詰まらせた慈玄だが、その言い様からやっと気が付いた。 「てめぇ、見てやがったのか!」  慈斎は何を今更、とでもいうように視線を外す。どこからともなく取りだした式符を指で挟み、ヒラヒラさせて。 「もちろん、直接じゃないよ?だから詳細は知らない。和のバイトしてるとこの店長が妖狐だってのは慈海から聞いてたし、張るのは当然の流れでしょ?闇という意味では一番分かりやすい存在なんだから。でも逆に言えば、そんな力のある妖なら、動きがあればすぐにわかる。たとえぼんくらな慈玄でも、ね?」  挑発的な物言いに反撃したくなるのを堪え、慈玄は先を促す。それこそこんなところで下らない喧嘩をしている場合ではない。 「ところが、そんな兆候はなかった。慈玄が動く気配も、妖狐が動く気配もね。ただ、その保健のセンセイが俺もちょっと気になって」  モールの中では比較的大きな店舗だが、高い棚や大きな柱があるわけではないので、通路寄りのこの場所からもレジで会計をしている和宏は目で追える。ショッパーを受け取り振り向いたところで、彼等の話は中断を余儀なくされた。  お待たせ、と少年が右腕を高く上げる。  唯一、店の中央部に置かれた棚と一体化した仕切壁。こちらへ向かう際に寸時、それに視界が遮られる。迂回してすぐに姿を現すはずの和宏は、しかし隠れたままだった。 「慈玄!」  異変に二者はすぐさま中へと駆け込む。回り込むと壁の裏側で和宏は、栗色の髪の人物に立ち塞がれていた。

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