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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・31

 店内の人の出入りには彼等それぞれ気を配っていたが、つい今し方までこんな形姿の者は見当たらなかった。完全に初めて見る男だ。煙のように突如……否、「気」という目に見えぬものさえ感知する天狗たちにすれば、妖や霊よりも唐突な出現。しかも一見華奢に見える相手の男は、明らかに実体を伴っている。  慈玄たちに気付いたのか、微かに首を回し振り向いた。向けられた視線は金色。向けた先と同じ、大約の人間とは違う虹彩。見えたのは一瞬で、間もなく背後など興味なさげに和宏の方へそれを戻したが。 「紫亜(しあ)」  和宏の腰は引けていたが、どうやら知らぬ仲ではないようだ。名らしきものを口にした。 「ふぅん、あれが例の。道理でちょっと居心地悪いと思ったさね。でも、こんな人の多いところで詰め寄ったりはできないさねぇ?」  独り言のようにも聞こえる台詞が、和宏の耳に届いた。ただその意味まではよくわからない。流して、話題を変える。 「か、買い物?一人?」 「うぅん。和宏を気に入ってる楔波(せっぱ)も一緒」 「や、別、に、気に入られてるわけじゃない、と……」  多少ぎこちない様子ではあっても、和宏と「紫亜」と呼ばれた男の会話は顔見知り同士の他愛ないものに見える。  踏み入ったものの慈玄も慈斎も、一歩離れた場所から先に近寄れない。今間を割って二人を引き離せば、異様に見えるのは慈玄達の方だ。 「あ、あの、俺、買い物の続きするから」 「じゃあ、俺等と一緒に回るさね。楔波ももう来るし」 「い、いや、それは……」  身体を傾け、和宏が慈玄を見る。目で、助けに入って欲しいと請う。 「おい、お前」  意を読み取った慈玄が肩を掴もうとした矢先。少年に顔を近付けるため前屈みになっていた男の姿勢が、不意に直立になった。まるで遠くで針が落ちた音でも聞き分けた様子で。 「……あーあ、もう少し遊ぶつもりが、ますます居心地悪くなったさね」  肩をすくめて嘆く。ここに至るまで慈玄の存在は無視されたまま。彼が声を掛けたことによってとられた反応でないのは確かだった。 「ま、いずれゆっくり遊んであげるさね」  あまりにも素早い動作だった。「紫亜」は再び屈み込むと、和宏の唇に己のものを重ねた。キスというよりは、舐め取るように。 「な……っ?!」  ぱっと頬を染めて、人の目を気にし和宏は周囲を見回す。幸い、店内の客等で気付いた者はいなさそうだった。  だが、傍にいた慈玄はしっかりと目撃している。唖然として動きを止めていたが、即座に我に返り、さっさと引き下がった後ろ姿を追う。 「待て!」  気配の一端さえ勘付かせずに現れた青年は、今度はその場で消えたりはしなかった。余裕の笑みを慈玄に向け、人波の中へ歩き去る。 「待て、っつってんだろ?!」  今度こそ、慈玄が相手の肩を捕らえた、はずだった。 「な、に……?」  掴んだと思った掌が空を切る。先程見た限りは、間違いなく実在していた。いや、現状目にしていても相手の身体は霊体のようなものではない。だが鰻かドジョウでも握った如く、するりと抜けたのだ。 「紫亜」は軽く振り返り、傍らの大男にも告げた。 「焦らなくてもいいさね。近いうちに、また会うさね」  ひどく愛らしい……そう、言うしかないほどの無邪気な笑顔を浮かべて。 「なんだ、あいつ」  ぽかんと突っ立った慈玄のやや後方、慈斎は先と同じ場所で一部始終を監視していた。隣に、和宏がおずおずと近寄る。 「和、彼、知り合い?」  前方を向いた状態で、慈斎が問う。公衆の面前でキスされたのが恥ずかしいのか、まだもじもじしながらの答え。 「う、うん。といっても、顔を合わせたことはそう無いんだけど」  照れているということを配慮したとしても、どうにも歯切れが悪い。奇妙に感じ、慈斎はようやく赤茶色の頭頂に目を向けた。横に立つ少年がやや俯いていたからだ。 「最初はバスケの試合会場で、だったような。だから、他校の生徒かと思った、んだけど」  なにやら記憶が覚束ないらしい。必死で思い返しているように慈斎には映った。 「もう数年前、中等部だったとき、かなぁ。それから、一、二度見掛けた、っていうか」 「……へぇ」  そこに、首を捻りながら戻った慈玄が並ぶ。今のやりとりは、彼にも聞こえていた。 「なんだそりゃ。その割に親しげに喋りかけてたじゃねぇか」 「よく覚えてないんだけど、なんか初対面からあんな感じだった気がする。なんていうか、向こうは最初から俺のこと知ってた、みたいな」  慈斎は思案顔で、また前を見る。目に入るのはもはや、慈玄の大柄な体躯だけだったが。 「気付いた?さっき、上手いことこっちの目に入らなくなったところで、また気配ごと消えた」  変わらず相手を見もせずに慈斎はぼそりと口にしたが、言われた方は神妙に頷く。 「あぁ。気は明らかに人とは違ったが、妖にしちゃ微弱すぎる。何者なんだありゃぁ」 「え?!も、もしかして紫亜が、中峰さんの言ってた闇と関係あるの?」  よくは知らない、と言っていた和宏だが、以前から面識のあった者が異種の存在であったのは衝撃だったようで、大きな眼を更に丸くする。 「んー、まだよくわからない。でも、その可能性は高いね。目的が何で、どう出てくるのかもわからないけど。用心だけはした方がいいかも」 「そ、そっか。前からちょっと苦手な感じ、ではあったんだけど」  三者は揃って、食料品売り場のフロアへ歩を進めた。ショッピングモールは大きな総合店舗を併設している。品数も豊富だ。  不安の種は残るが、せっかく来たのだから食料の買い出しもしておきたいとは、和宏の提案。気配はすでに失せているから、もう憂慮はしなくて良いのかもしれない。  しかし先刻の登場を省みれば、警戒は必要。辺りに注意を配りながら。 「楔波、っていうのは紫亜の双子の兄弟で。双子、っていっても全然似てないんだけど。だいたいセットで一緒にいて」  他に知っていることはないかと慈斎に訊かれ、和宏が途上話す。 「あと……そういえば二人に初めて会った頃じゃなかったかな、夢露先生が赴任してきたの。それにあいつらに会うときって、先生もいつも近くにいたような」  和宏にとっては脈絡のなさそうな関係だろうが、思い出したのかこんなことも言った。天狗たちは天啓でも降りた様で、瞬時顔を見合わせる。 「偶然とは思えんが。あいつの気、人にしては変だったが、妖のものでもなかった」 「うん、俺もそれは感じた。霊とも違うけど、妙な形で曖昧だったね」  食料品のフロアは一階なので、エスカレーターを降り、多数ある入り口のひとつの前を過ぎる。自動ドアが引っ切りなしに開閉して客を招き入れていたが、その中に。  今度は、慈玄にも見覚えのある顔が確認出来た。ぴょこんと跳ねた、明るいオレンジブラウンの頭髪。 「あっれぇー、和?」  額に手で作った庇を当て、南那津蓮(ななつれん)は小さな背を伸び上がらせた。

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