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4 連帯責任
月曜日になると、続々とテストが戻ってきた。元より手応えは無かったが予想通りだ。もしかしたら今まで一番低い点数かもしれない。
郁郎が机に突っ伏していると、安志はきょろきょろと辺りを見回していた。
その間を香深がすまし顔で通って行く。
安志はひょいっと香深の背後からテスト用紙を覗き込んだ。
人の点数を見たって自分の点数が上がるわけじゃなし、安志の好奇心の強さは時折郁郎でも辟易する時がある。
その好奇心は存分に満たされたのか安志は大きな目をさらに見開いた。
香深は安志が覗いたのはわかっていると思うが知らん顔だ。
香深は花を渡し続けている。
今日は三年男子の剣道部の元部長へ白いナズナを編み込んだ小さな花冠を。
元部長は実に照れ臭そうではあったが嫌がっている風はなく、断りもしなかった。
はやくも「朝の儀式」は恒例のものとなっていた。
郁郎は皆の順応力の高さに驚いていた。
香深の態度や得体の知れなさは少しも変わっていないのに、校門で、下駄箱の前で、廊下で、香深が薄く微笑んで花を差し出すと、誰もが受け取ってしまう。
受け入れなければならないことのように。
その点では安志のわかりやすい反発の方が郁郎には理解できた。
六限目はA組との合同体育だ。
ジャージに着替えてぶらぶら歩いていると校庭から「早くしろ!」とバカでかい声がした。せかされても誰も走り出そうとしない。
大声を出しているのは新任の体育教師の高宮だ。
新任と言っても一年近く経つのに、いまだ生徒との距離をつかみかねているのか、指導と命令の境目がつかないようだった。
そのくせ部活の後輩に対するように妙に馴れ馴れしい時もある。
準備運動を終えるやいなや、高宮は「今日はサッカーするぞ」と満面の笑みを浮かべて言った。
「転校生がきただろ、ああ、君ね。君が入ると丁度三十三人なんだよね。お前らもなぁ、一回くらい十一人でやってみたいだろ」
「先生、今日松田が休みです」
A組のクラス委員が冷たく言い放つ。
「えっ」
高宮は見るからに動揺していた。
しかし、どうしても十一人制ありきで考えていた予定を変えたくないらしい。
三十二人をA組、B組チームと、十人のA、B混成チームの三つに分け、まずはAとBで十五分の試合、その後Aチームと混成チーム、混成チームとBチームの試合をすることにした。郁郎と安志、香深はBチームに割り振られた。
「時間がないんだ、だらだらするなよ!」
そりゃあ無いだろう。一限は五十分しかないのだから。
ポジションなど決めていられない。たまたまBチームには二年生にしてサッカー部でレギュラーを務める下村がいたので、すべて彼に従うことにした。
「浦辺はキーパーな」
「うん」
キーパーといえば直接勝敗に関わる重要なポジションだが、郁郎は気軽に引き受けた。
どうせ上背があるからとかなんとかその程度の理由だろうし、あまり走り回る気分ではなかった郁郎にとっては渡りに船だった。
「なんでサッカーやらせたいんだろ」
郁郎の疑問に下村が端的に答えた。
「アピールアピール。あいつサッカー部の顧問になりたいんだよ。大学までサッカーやってたから」
「あぁ……」
果たして五十分、いやあと四十五分で三試合できるだろうか。
高宮の思惑に反し、生徒たちは実にだらだらと試合をこなした。
敵味方でボールを回しあうような試合運びに高宮はいらいらして、審判をつとめながらもどちらのチームにも耳をつんざくような声で『アドバイス』をとばす。
さすが大学までやっていただけあって、よく聞くと有益なことを言っていそうなのだが、あまりにもわめきすぎてどちらのチームに対して言っているのか誰もわからず戸惑うばかりだった。
おかげで郁郎は暇だった。海から吹いてくる風に体が冷えないよう時々体を動かすだけで、ゆっくり試合運びを見ることができた。
まだ学校指定のものを買っていないのか、緑色のジャージの集団に一人だけ水色のジャージを着た香深はやはり目立った。
香深は郁郎から見ると左側の後ろ寄り、守備的な位置にいて、やはり暇そうにしている。
このままの姿で生まれたのではないかと思うくらい全てがきっちりと整えられた普段の学生服姿と違い、ジャージは少しオーバーサイズのようだった。
襟が後ろに抜けていて、華奢な首元がさらに細く見えた。七三分けの髪も海風に吹かれ放題に乱されている。
ボールが香深の方に転がってきた。生ぬるい試合でも得点チャンスを見逃す手はない。ボールを追ってAチームの選手が二人駆け込んでくる。
香深はボールをキープすると、一人目をターンでかわし、二人目をするりと抜き去ると間髪入れずボールを司令塔の下村に送った。
「おおー」
ひょろっとした香深ならふっとばされてしまうんじゃないかと思っていた郁郎は、軽い興奮と共に驚きの声をもらした。
「サッカーやってたの?」
こぼれ出たボールをネットに入れ、コートの脇に戻ってきた香深に郁郎は声をかけた。Aチーム対Bチームの試合は無得点のまま引き分けに終わった。今コートの中はAチーム対混成チームが試合をしている。Bチームはサッカー部員は審判を、その他のものはボール拾いだ。
「右だ右!」
東側のゴールからあれやこれやと大声で指示が飛んだ。十人しかいない混成チームに一人、大人が混じっている。
もちろん高宮だ。
Aチームの生徒が文句を言わなければちゃっかりフィールドに出ていたであろうが、さすがにそれはあんまりだということでキーパーをやっている。
結局自分がサッカーをやりたい、あわよくばいいところを見せたいという欲が勝ってしまったようだ。
「体育でやったくらいだけど」
「へぇ、そうなんだ……う、上手いね」
全体的な働きとしては地味なものだが、香深は水のようなとらえどころのない動きで敵を牽制し、一本もシュートに持ち込ませなかった。香深のところまでボールが回ってしまうと郁郎も忙しくなってしまうのだが、郁郎は香深がボールを持つのを楽しみにさえ思った。
と、興奮のままに声をかけてしまったが、黒々とした香深の目を向けられて、これが初めての会話であったことを思い出して郁郎は口ごもった。
「ありがとう」
口だけは礼を言っているが、香深は少しも嬉しそうではなかった。薄笑いさえ消えて全く表情というものが無い。
「あと何秒だ?!」
「じゅうにー。十一、十」
高宮の問いに主審役の下村が雑に答えた。得点ボードは〇対〇のままだ。いつの間にかボールが東側のゴールラインを超えていたらしく、高宮がゴールキックを蹴りだすところからプレイが再開した。
「上がれ上がれーっ!」
高宮の指示に混成チームのメンバーはとろとろと走ってるような格好をして、それに仕方なく合わせるようにAチームも動き出す。
高宮は大柄な体を存分に生かし、持て余す力をすべてボールに乗せて蹴りこんだ。
ボールは味方も敵も飛び越えて飛びに飛び、ついにAチームのキーパーの手をすり抜けて、すとんとゴールにおさまった。
「あ」
そこにいた香深以外の全員があんぐりと口を開けてボールが転がるのを見ていた。
「うぉぉぉぉぉぉっー!」
高宮が両手をつきあげ勝利の雄たけびをあげた。
下村が慌ててストップウォッチを確認して長い笛を吹く。
得点ボードにしっかり一点が入って混成チームのメンバーはようやく勝利したことを理解した。
高宮がフィールドに駆け出すと、じわじわとチームの輪が縮まっていった。
混成チームは高宮を中心にみんなにこにこ飛び跳ねている。Aチームは狐につままれたような顔をして立ちすくみ、Bチームはこの茶番じみた次第に気持ちが追い付かず、ぼんやり見守るばかりだった。
いつまで経っても混成チームが飛び跳ねているのでたまらず下村が高宮を呼んだ。
「先生、次の試合は?」
「あ、ああ。うん。B組集まれー」
すでにやりきってしまった高宮の気のない呼びかけにBチームのメンバーたちものろのろ集まった。
「なぁ、転校生となに話してたんだ?」
後ろから安志が郁郎にささやきかけた。
「いや、何も。サッカーやってたか聞いて……やってないって」
「どんな感じだった?」
「どんなって、普通だよ、普通」
普通。だったと思う。とりあえず表面上の言葉は。
「おい、谷本と斎藤は?!」
なるほど、高宮の言う通り二人足りない。
「どこ行ったんだ」
そんなの知ったこっちゃないのだが、高宮の怒りは目の前にいる生徒たちに向かっていった。
「なんで気づかないんだ!お前らも……コラーっ!!」
体育館の横にある水飲み場からくだんの二人が必死の形相で走ってくる。高宮も迎え撃つように駆け出し、校庭の真ん中辺りで二人は捕まった。やはり声が大きすぎて何を言っているのかわからないが、頭ごなしに怒鳴りつけられて二人とも小さく縮こまっている。おまけに首根っこをつかまれてみんなの前に引きずり出され、まるで罪人のような扱いだった。
で、これをどうするのだろうか。もうサッカーの試合をするような雰囲気は全くない。
その時、救いの鐘が校庭に鳴り響いた。六限目が終わったのだ。ところが高宮の怒りは終わらなかった。
「谷本!斉藤!三試合目ができなかったのはお前等のせいだからな!B組チームは校庭十周だ!」
「えー、俺たち関係ない……」
Bチームのメンバーが口々に抗議の声をあげた。
「同じチームだったらちゃんと見てろ!連帯責任だ!」
高宮の怒りはすっかりBチームにむいていて他の生徒には何の指示もない。
Aチームの者は帰ってしまっていいのか、それともBチームが十週走るまで待った方がいいのか、こそこそと小声で話し合っている。高宮と一緒になってきゃっきゃしていた混成チームのメンバーは見つかりたくないと思っているのかみんな目を伏せて押し黙っていた。こうなってはさっさと走ってしまった方がことが収まるのではないかと郁郎も思い始めた。
「責任とはなんですか?」
石の目で香深が高宮を見つめた。
「だから、お前らが同じチームのメンバーをちゃんと見てなかったのがだなぁ……」
「授業全体の監督責任はあなたにあります。僕が走ったからといってあなたの責任は消えません」
高宮は香深の言ったことの意味がわからなかったのか、きょとんとした顔で小首をかしげた。
たしかに、授業全体の責任は教師にかかっている。実現不可能な時間設定をしたり、生徒が授業を抜け出しても気づかない状況を作り出したのは高宮の責任にある。
「あれ、普通か?」
安志が郁郎を肘でつついた。
「……前言撤回」
やっぱりちょっと、『普通』じゃないかもしれない。
香深はさらに畳みかけた。
「もし谷本君と斉藤君が事故に遭っていたら、僕たちの責任になりますか?」
すでに皆の興味は高宮が「屁理屈言うな、さっさと走れ」と言い出すかどうかに移っていた。香深だけでなく三十一人の目が高宮を見ている。誰のせいだとか、十周走るの何のよりも高宮がどういう落ちを付けるかだ。
高宮は食いしばった歯の間からひり出すように叫んだ。
「谷本!斉藤!……五周だ!」
はじかれたように二人は走り出し、高宮はボールの入ったネットを担いで肩をいからせながら校舎に戻っていった。
取り残された生徒たちは帰っていいのかよくわからず冷たい風に吹かれて突っ立っていた。
「なんか……これでいいのかな」
香深が言いたかったのはそういうことじゃない気がする。
「いいんじゃねぇの。俺たちは走らなくてすんだし。それよりさ、森がどんな顔してるか見に行こうぜ」
安志の好奇心がうずき出したようだ。
見回すと香深はもう校庭を立ち去っていた。郁郎は香深が高宮をやりこめたからといって鼻を高くしているとは思えなかったし、安志が期待するようなことにはさして興味を持てなかったが、安志に引きずられるように更衣室に向かった。
更衣室は体育館の中にある。校庭から昇降口の脇を通って体育館に入ろうとすると、校門の前にパトカーが停まっているのが見えた。その横で制服を着た警官と教頭がなにやら話し込んでいる。
「なんだなんだ」
安志が聞き耳を立てるのにつられて、郁郎も聞くともなしに警官の話を聞いた。
「……男の人の叫び声が聞こえると、近隣の方から通報がありまして」
安志は手で口をおさえて笑いを飲み込んだ。郁郎も口がむずむずするのを我慢するのに必死だった。
更衣室に飛び込んで着替える間中、二人はげらげら笑い続けた。更衣室にはすでに香深はおらず、安志も香深の話はもうしなかった。
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