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5 幽霊部員
朝から温かく、生ぬるい風が吹く日だった。
金曜日の放課後は部活動がある。卓球部の安志は練習のために体育館に行ってしまった。
隣では香深が帰り支度をしている。郁郎は開け放たれた窓の外をぼんやり見ていた。
校舎と校舎に挟まれた中庭は芝生が敷き詰められているだけで殺風景なものだ。
その中庭に蓋をするように灰色の雲が降りてきていた。もうすぐ雨が降る。傘は持ってきてないから、早く学校を出ないと濡れて帰ることになるだろう。
それでも郁郎は帰る気になれなかった。
教室に残っていた二、三人の女子がちらりとこちらを見た。郁郎ではなく香深を見ているのだ。テストの最終結果が返ってきてから、香深を見る目がまた少し変わった。
特に女子の注目度は段違いに上がった。ちらり、ちらりと教室の後ろに視線を送っては、笑い合っている。香深に送られた視線はその隣の郁郎も感じざるを得ないわけで、これがかなり鬱陶しい。
どうかすると、香深を見ていた女子と目が合って、お互い気まずくうつむいてしまうこともあった。そのたびに郁郎は「何故お前はそこに居るんだ」と問いつめられているようで、息が詰まる思いがした。
急に窓から突風が吹き込んだ。
カーテンが舞踏会を始めたかのように、教室の中で踊った。
風が静まると、教室には郁郎と香深しか残っていなかった。
その香深も立ち上がり、今にも帰ろうとしている。
「浦辺君は部活に行かないのかい?」
古めかしい革の学生鞄を持ち上げる一瞬、スイッチが切り替わったように突然香深が話しかけてきた。
「……行かない」
あまりの唐突な質問に郁郎はオウム返しに答えるしかなかった。
「この学校はどこかの部に入らなきゃいけないと聞いたけど」
確かにそんな変なきまりはある。だが抜け穴もあるのだ。
「俺は幽霊部員だから」
「サッカー部?」
「いや、美術部。……なんでサッカー部?」
「体育の時、サッカー詳しそうだったから」
「ああ……いや、別に、詳しくなんかないよ。本当にただ、上手いなぁって思っただけで。えらそうだったかな」
「いや、そんなことないよ」
喋っている途中から、郁郎は不思議と胸がどきどきしてきた。
これこそ『普通に喋っている』状態だ。
安志の無遠慮な好奇心には閉口していたはずなのに、今は普通に喋ったことを教えてやりたいくらいだ。
「厳しくなさそうなら、僕も美術部にしておこうかな」
「うん。文化祭の時になんか一つ出せばいいだけだし」
その年に一つの作品すら、二年生になってからは提出していないが注意されたこともない。所属だけしておきたいのなら、最適だろう。しかし、郁郎は惜しい気がした。
「森こそ、サッカー部入らないの?」
あの技に磨きがかかったところも見てみたい。そんな郁郎の欲を香深はさらりとかわした。
「運動部は疲れるよ……それに」
香深は少し目を細めて、薄く笑いながら郁郎を見下ろした。
「幽霊になってみたいね。僕は」
「……それ、冗談?」
香深は返事をしなかった。笑みをたたえたまま鞄を持ち上げて「また明日」と言い残して去っていった。
ぐずぐずと学校に残っていたのが祟って、帰り道の途中で雨が降り出した。
最初こそぽつぽつとだったが、途中からスコールと言ってもいいぐらい激しい降りに変わった。神社の屋根に飛び込んでなんとかかわしたものの、これでは一歩も動けない。
元々帰りたくなかったのだから、ちょっとゆっくりしていってもいいだろう。本殿正面の階段に腰を据えて雨が上がるのを待った。
神社は浜を見下ろす高台にある。雨に煙る浜の家並みは朦朧として、人など住んでいないかのようだ。雨の幕に閉じこめられて郁郎は安心してぼんやりすることができた。
一気に降った雨は長続きはせず、三十分ほどで小雨に変わった。
神社を出て、いつもの三叉路を通り、丘へ登っていく。大地はまだ枯れ草に覆われているが、ところどころ、雨に濡れた若草が蛍光色に近いような緑色を見せていた。道端には萌え出て間もない草花が小さく揺れている。
「あ、ナズナ」
香深が花冠にした花だ。他にも見覚えのある花がちらほら見え隠れしている。ナズナは春の七草で食べられると祖父から教えられたので知っているが、他の花の名前は知らない。
香深は雨に降られずに帰っただろうか。香深の帰る方向は知っていても、どれほど道のりがあるかも、途中雨宿りできる場所があるかもわからない。
花も道もずっとそこにあることは変わらないのに、示されなければ知ることもない。
家の門をくぐったのは日暮れ前だった。
「ただいま」
勝手口から入って、誰もいない廊下に声をかけると、脱衣所の入り口からひょこっと卓郎が顔を出した。
「にいにー」
上半身裸で、下はおむつをはいた卓郎がむちむちとした足で郁郎に向かって走ってくる。
「郁郎、捕まえといてくれ」
さらに裸の叔父が現れた。
「うわっ……裸でうろうろすんなよ」
「あ、ごめんごめん。濡れて帰ったなぁ、お前も一緒に風呂はいるかー?」
「アホか」
抱き上げた卓郎を叔父に渡して、郁郎はさっさと二階に引き上げた。
なるべく見ないようにしていたが、自室のドアを閉めても、叔父の身体が脳裏にちらついて仕方がなかった。
若い頃の、それこそ一緒に風呂に入っていた頃の少年の面影が残るしなやかな身体。毎日の農作業に鍛えられ筋肉の上にうっすらと脂ののった三十男の身体。二重写しになった叔父の身体は人格を持たない。誘惑に満ちた肉体だけが郁郎の芯を揺さぶった。
郁郎はあわてて自室の窓を開けた。
濡れたアスファルトの匂い。
土のいがらっぽいどっしりした匂い。
かすかに香る新芽の青臭さ。
一つ一つ、冷たい空気を彩る匂いに名前をつけていくと、身体に宿った熱が冷めていった。
熱が去った後は、苦さだけが残った。
西の空に残っていた日の名残も消えて、窓の外には暗闇が広がった。階下から団らんの声が聞こえる。
暗闇は郁郎を問い詰める。
「何故お前はそこに居るんだ」
と。
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