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第五章 必然③
父は取り乱す母をなんとか説得しようとしていたが、三十分粘って諦めた。母は頑なだった。死の淵に立って正気を取り戻したのか――碧志からすると父も母も正気ではないように見えたが――ともかくその日の計画は中止となった。来た道を下る。帰りの車中では、母のすすり泣く声だけが聞こえていた。父の無言と、母の泣く横顔を、碧志はひとり、静かに後部座席から眺めていた。
異変が起きたのは、走り出して五分も経たない頃だった。父が言った。「変だな、なんか、ブレーキが効きづらいぞ」
気のせいよ、と母は最初取り合わなかった。が、次第に乗っている碧志にも体感できるほどに、車の動きに異変が起きてきた。スピードが上がり続け、父がなんとか車をコントロールしようとハンドルを必死に回す。蛇行し、車は大きく揺れ、碧志は何度も頭を打った。
それでも、車の勢いは止まらない。ひたすらにジェットコースターの下りだけを体験させられているような恐怖。落ち続ける。加速し続ける。止まらない車。混乱する父と母。無言の碧志。
「ちょっと! 止まってよ!」
母が怒りの声を上げる。
「ブレーキが効かないんだよ!」
父も負けじと、叫ぶ。
「なんでよ!? もしかしてあなた、仕組んだの!? わたしが駄々こねたから、こうやって帰りの運転中にみんな殺そうってわけね!? そうなのね!?」
「っ、そんなことあるわけないだろう!? こんなときにまで家族を疑うのか、お前は!!!」
学校から帰ると、毎日のように繰り広げられていた父と母の醜いやりとり。それが、こんな――生死の狭間に立たされ、一刻を争うような瞬間でも行われている。二人の会話を聞きながら、碧志の心は、氷のように冷めていった。彼の足元には、ハイブランドの赤いバッグがぽつんと落ちていて、車の揺れに合わせて、がくがくと、その口が開いたり閉じたりしていた。
突入する。カーブ。近づく崖。加速する車。父が何かわめく。ハンドルを思い切りひねる。間に合わない――碧志は直感した。後部座席のドアはチャイルドロックがかかっていた。急いで窓を開けようと、レバーを押す。はやく、はやく、はやく――全部開け!
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