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第六章 救い⑥

 ――十分後。 「ねぇ、イノリ! 僕ほんとにずっとこの体勢じゃないとだめ?」 「そうだ。我慢しろ。夏祭りに行きたけりゃな」  和室の中央あたりに彼を座らせ、読書をしてもらう。祈はその姿をデッサンする。普段、碧志の姿を描きたいと思っても、彼はちょこまかと動き回るので、なかなか集中して絵を描くことができない。けれど、夏祭りに行くという交換条件を出した今、碧志は必死に動きたい衝動をこらえながら、読書に集中しようとしている。口と視線を動かすことと、本のページをめくることだけは許可している。  祈は、手元の鉛筆に視線を落としながら言った。「つーかお前、まだその本読み終わんねぇの?」  かれこれもうあの万引き未遂から、二週間ぐらい経っているというのに。碧志の手には未だに『青』が握られている。 「だって、やっぱりむずかしいんだもん、この本。芥川賞って、こんなんなの?」 「こんなんとか言うな」 「でも、すごいねぇ、この子。青しか見えなくなって、絵を描いたらそれがすごい売れちゃったんでしょ?」 「そうだ」 『青』の主人公は十三歳の少女・哀衣(あい)。彼女はある朝、目覚めると、視界の中で青色しか視認できなくなってしまう。戸惑う彼女。家族に話しても理解は得られず、眼科に行っても目の機能そのものに異常はない。青しか見えなくなった世界で、彼女は誰にも共感されず、異常だと叩かれ、やがてひとりの世界に閉じこもるようになる。そうして、自分だけの世界に浸りながら、ある日、自分の瞳に映る世界を絵に描いてみようと、筆と画用紙を手に取った。青しか見えない、その意味が伝わらないことも多々あった。でも、こうして線を描き、青色の絵具を使って自分の目から見える景色を表現できれば――周囲の人間から、少しでも理解を得られるかもしれない。そうして描き上げた作品を、SNSに投稿したところ、独創的で非常に美しい、とかなりの評判を集めた。有名な画家や美術商、コレクターなどから声がかかるようになり、彼女の絵一枚で、家を一軒建てられるほどの値がつくようになった。

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