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第七章 覚悟⑤

 書こうとしても、手が、動かない。脳になにか、ブレーキのようなものがかかってしまったかのように、何も、思いつかない。空白。祈は呆然とし、思わず鉛筆を握る自分の手を見つめた。ところどころにできているペンだこ。ささくれだらけの指先。そして――いつもすぐに書き跡で真っ黒になるはずの、手の甲。  目を瞑り、机に顔を突っ伏す。  ――限界が来たのだと、祈は感じた。全身の力が、地面に吸い取られるように、抜けてゆく――それまで祈は、今までの人生で感じていた違和感や絶望、苦しみ、世間に対しての怒り――そのような感情を追い払うように、過酷な現実から目を背けるように、執筆に没頭していた。現実、過去、未来――どれもこれも、考えても仕方のないことばかり。後悔、責任、虚無――どれもこれも、祈の中から生まれ、あふれ、そして、ときにそれを小説のテーマや登場人物に投影することで、払拭し、消化してきた――つもり、だった。けれど、そうして祈の身体じゅうにまとわりつく負の感情が、ついに、祈自身を喰い尽くしたのだった。  次の日、目が覚めて布団から出ようとしたが、起き上がるまでに二時間かかった。腹は確実に空いているはずなのに、食欲はいっさい湧かず、重怠い身体に鞭を打って机に向かっても、まるで漂白されたかのように、頭の中は空っぽ。それどころか、文字を書くためのたった一本の鉛筆を持つ力すら手のひらにはなく、気付けば真っ白な原稿用紙を目の前にして、八時間経っていた。夜は眠れず、身体には虚無と喪失が充満し、自分が何者で、何のために生きているのか、わけが分からなくなった。  目に映るすべての景色が、灰色だった。世の中すべてが、もう、どうでもいい――来る日も来る日も、生を持て余す空虚な毎日を過ごすようになった。魂の抜け殻のように、自分の顔からみるみると生気が抜けていった。部屋の窓から、家庭と社会を行ったり来たりする人々を見つめながら、己が何をせずとも巡る朝と夜をぼんやりと眺めながら――ある夜、暗闇の中ろうそくの火がぽっと灯るように、思いついた。  ――二十歳になったら、死のう。

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