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第七章 覚悟⑥

 そのとき、祈の手の中には、何もなかった。何もしないし、何も感じない。そうして――気が付いた。そうだ、そもそも俺には元々、何もなかったじゃないか――小説が少しばかり世間に評価されたからといって、自分は勘違いしていた。自分は、ただの人だ。特別でも何でもない。そこらへんのサラリーマンや、子供や、老爺のような人間と変わらない、ただの人。息をしてるだけの、生命体。何も感じない。何も生み出せない。もう、何も――誰にも、与えられない。  絶望が、悲嘆が、自己の崩壊が――祈の首を、じわじわと絞めつけていく。  祈は、真っ白な原稿用紙を前に、目を瞑った。そして、顔を、ゆっくりと、机に押し付けるようにして、倒した。これまでの全ての記憶が、走馬灯のように、祈の脳内を、駆け巡った。暗闇の中、微笑みを交わした、母親のやさしい表情。震える手で、警察と救急車を呼んだ暗い和室。ひとりになった祈のために連れて来られた施設で、自分の部屋にこもって過ごした、ひとりきりの世界。 『青』を生み出してからの、目まぐるしい日々と、精神を病む寸前まで追い詰められた、あの、トラブル。そこから抜け出したくてようやく辿り着いた、この安息の地。静かな和室でたったひとり、今日まで過ごしてきた時間。来る日も来る日も、ただひたすら、執筆のために机にかじりついていた、かけがえのない、時間。手のところどころにできた、ささくれと、ペンだこと、真っ黒な書き跡。原稿用紙の茶色いマス目の中にギチギチと埋め込まれた、自らの意思を持って今にも動き出しそうな、大量の文字。  ――ぷつん。  そのとき、確かに祈はを聞いた。  それは、長い間、ぎりぎりのところで耐え続けてきた祈の自我がぱたりと(たお)れ、屍と化す音でもあり、祈自身の生命の行き場が失われたことを告げる、まさに絶命の瞬間の音でもあり、祈の壊れかけた肉体と精神を繋ぎ止めていた、最後の命綱が切れた音でもあった。  ――もう、いい。  ……もう、終わりにしよう。二十歳になったら、終わらせよう。すべて。  十六歳、人生に疲れ果てた祈がたどり着いた最終決断だった。

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