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第八章 変異④
こんなにたくさんの涙の流すのはいったいいつぶりだろう――碧志は、祈の胸の中で泣きじゃくりながら、考えた――けれど、思い出せなかった。
ストーカーが怖かったのか、と改めて問われれば、本当に恐ろしいと感じていたかどうか、碧志にはよく分からない。七歳のときに事故に遭って以来、碧志の中で『恐怖』という感情がすっぽりと抜け落ちてしまったからだ。
それでも、常に心に武装をして、必要以上に身体を強張らせて外を出歩くのは、自分の小さな身体にとって、ひどく、プレッシャーだったのだろう。自分でも驚くほど泣いてしまった。
けれど、きっとこの涙は、そんな怖さから解き放たれたものだけではない。祈の言葉は、碧志の身体の奥深くまで優しく染み込んでいった。あの事故以来、呪われたように沈み込んでいた心に手を差し伸べ、温かさを与えてくれた。あのときの出来事そのままを、受け入れてくれた――そう、碧志には感じられた。
碧志には、自分を抱き締めてくれる親はいない。無条件で愛を注ぎ、何かあれば全力で駆け付け、自分の身を挺してでも守り、人生のどんな瞬間においても、碧志という人物を己の優先順位の一位にしてくれる人間は、いない。それは、果たして、悲しいことなのだろうか――碧志には、よく、分からなかった。
きっと目の前の祈だって、自分のことを誰よりも愛してくれているのかどうかは、定かではない。これは別に、祈のことを信用していないということではない。もちろん、碧志自身は、以前祈に伝えたとおり、彼に何かあればすぐにでも駆けつけて、全力で守りたいと思っている。けれど、人には生活がある。人生がある。今、こうして碧志は毎日を祈という青年と一緒に過ごしているが、祈にとって碧志との時間は、おそらく、人生のごく一部にすぎない。きっと、祈には、祈なりに大切なものがあるはずだ。彼の首からかけられた切ない十字架を見るたび、そう思う。
けれど――
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