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第八章 変異⑨

「祈、猫なんか飼ってたの?」   碧志が、訝しげにこちらを振り返る。 「……いや、飼っては、ないな」 「じゃあこの子、野良なの?」 「……そのちょうど中間くらいだな」 「なにそれ」  碧志は、難解なパズルを目の前にしたかのように、眉を顰めた。それを見て、祈は少し、頬をゆるめた。 「俺にもよく分からないんだ」  出会ったのは、三年前。ちょうど、小説が書けなくなった直後の頃だった。その日、祈は絵を描くための画材道具を買いに行っていた。帰宅し、アパートの外階段を上がって二階にある自分の部屋に行こうとしたとき、敷地の隅に、何か黒い大きなゴミのようなものが落ちているのを発見した。祈は首を傾げた。このアパートは、祈を筆頭として、身元が知れない厄介者の集まりではあったが、ゴミを敷地内に無残に投棄するような人間はいなかったはずだ。祈は、なんとなく気になって、階段の一段目にかけていた足を下ろし、ゴミの近くまで歩いていった。  近づきながら「あ」と、思わず祈は声を上げた。  ――それはゴミではなかった。ボロボロで、見るからに死にかけの、衰弱した、黒い猫だった。祈は、一度部屋に戻り、買ってきた画材用品を置くと、瀕死寸前の猫を、余っていたダンボールに入れて、普段使っているタオルでその痩せ細った小さな身体を包み、動物病院へ急いで向かった。 「助けてあげたんだね」と、碧志が優しく言う。 「……まぁ、死にかけてたしな」  祈は腕を組んだ――ただ、自分でも、なぜあのときあんな行動を取ったのか、未だに、祈はよく分からない。自分自身でも分からない、というのがこれまた奇妙な話だが。(思えば碧志の万引きを止めたときもそうだった)  死に際の動物を見捨てることはできない、という献身的な思いからだっただろうか? そう問われると――それもどこか違うような気がして、大きくイエスとも頷けない。むしろ、自分の行動圏内で、死に目に遭遇するのが不吉で気味が悪く、正直不快だったという気持ちのほうが大きい気もするが。だからといって、そういう排除的で打算的な思考だけでは、わざわざ動物病院まで駆け込むことはしないだろう。  そもそも祈自身、動物はそこまで好きではなかった。碧志と同じで、動物を飼った経験も、一度もない。ただ、あのときは、もう、気が付いたときにはダンボールの中に猫を抱え、病院へ走っていた。何故だろう? やっぱり、分からない。  その後、問診してくれた医師の指示に従い――幸い、大きな怪我や持病もなく、感染症などにもかかっていなかったので――しばらくの間、自宅で看病していると、猫はみるみるうちに回復した。そして、健康体を取り戻すと、猫は、いつの間にか祈の部屋からいなくなっていた。祈のほうもそれで構わなかったし、むしろ、それきりだと思っていた。  しかし、この黒猫は、この和室で過ごすのがどうにも快適なのか、こうして時折ふらりと気まぐれに祈の部屋に足を運んでは、気楽に睡眠に勤しんだり、とにかく自由気ままに過ごしている。顔を出す頻度もまちまちだ。下手をすると数ヶ月もの間顔を出さないこともあるし、かと思えば、付き合いたての恋人のように、毎日毎日やってくるときもあった。

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