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第八章 変異⑩

「この子、名前とかあるの?」 「……一応は」  ただ、実際にその名でこの猫を呼んだことはない。祈の中だけでの、呼称だった。 「なんて名前?」 「アオ」  え? と、今度こそ碧志は変な顔をした。 「なんで? 黒猫なのに? だったらアオじゃなくて、クロでしょ?」  祈は、軽く息を吐いた。「そいつの目、よく見てみろ」  碧志は足音を立てないように、そろそろとアオに近づいていく。首だけひょいと伸ばしては、少し離れたところからアオの顔を必死に覗こうとしている。「んん……、よく見えないよ」 「もうちょっと近づいてみろ」 「でも」と、碧志が不安げにこちらを見る。 「平気だ」と、祈は言った。そして、碧志の腰を掴むと、畳に座るアオの近くに、二人並んでしゃがみこんだ。 「ほら」と、祈はアオの頭に手を乗せた。その艷やかな黒毛をなでる。全く、半野良のくせにどうにも綺麗な毛並みをしてやがる。喉を撫でてやると、アオはゴロゴロと気持ちよさそうな声を漏らした。 「……この子、本当に野良?」 「さあな、もしかしたら俺以外にもパトロンがいるのかもしれない」  この厚かましい黒猫野郎のことなら、ありそうな話だ。 「パトロンって?」  祈はその問いには答えず、アオの身体を黙って撫で続けた。その様子をしばらく見ていた碧志は、ようやくなにか決心がついたのか、そろそろとアオの身体に腕を近づけていく。そして、遠慮がちに伸びた彼の手が、そっと、黒い毛に触れた。 「あ……すごい……きれい」  碧志が小さく声を漏らす。  アオはやはり、碧志という見知らぬ人間であっても、全く動じないのか、彼のされるがままになっている。だからといって、お前に主導権を握らせているわけではないぞ、と、その図太い態度でしっかりと示してはいるが。  碧志の手つきがようやく慣れてきたところで、祈は再び言った。 「そいつの目、よく見てみ」  今度は躊躇なく、碧志はぐっと真正面からアオの顔を覗き込んだ。祈は、黙って二人――正確には一人と一匹――の対峙を見守る。 「……あ!」  碧志が振り返って嬉しそうに叫んだ。 「この子、目が青いんだね! だからアオっていうんだね!」  祈はアオの身体をひょいと持ち上げると、碧志の胸に抱かせてやった。  碧志は楽しそうにアオの毛並みを撫でながら、言った。「でも、ややこしいね」 「何がだ?」  碧志が、くすっと笑った。「祈、これからたいへんだよ。アオと碧志(あおし)って、言い間違えないようにしないと」  祈は目をぱちくりさせた。 「祈ってば、じぶんの小説も『青』だし。助けてあげるのも僕とかアオだし。もう、青ばっかりじゃん」  碧志はケタケタと笑っていた。猫を抱き、楽しげに笑う彼を見て、祈も、自然と愉快な気持ちになった。そんな二人の間で、黒猫アオはのんびりとあくびをしていた。

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