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第八章 変異⑮

 電話越しに、ペラペラと紙をめくる音が聞こえてくる。今、碧志は祈の部屋に新たに飾るためのカレンダー探しをしている。施設で余っているカレンダーを全部並べて、ひとつひとつ見ては、彼なりに吟味しているらしいが―― 「うーんと、新幹線のやつ……それと、ひまわりのもある。うーん。でも、なんかどれも……しっくりこないっていうか、ちょっとちがう気がするっていうか……」 「……はいはい。ほかには?」 「あ!? これっ! これっ! これすっごくきれい!!! イノリにピッタリ!!!!」  キーン、と高鳴る音。祈は思わず携帯電話を耳から離した。 「イノリッ!! 僕ぜったいこれがいいとおもう!」  めちゃくちゃに興奮している碧志。だが。 「お前、これが電話だってこと忘れてねぇか?」 「あ! そうだった!」 「で、どんなカレンダーなの?」 「うーんとね、ナイショ!」 「は?」 「こんどあったとき、持ってきてあげるね! それまで楽しみにしてて! じゃあね!」  そう明るい口調で言うと、碧志は唐突に電話を切った。『通話終了』という画面表示を見ながら、相変わらず、自由気ままで面倒くさいヤツだ、と祈は思った。  携帯電話を置き、先ほど買ってきた絵具を取り出した。アオが、ゆったりとした足取りでこちらにやってきては、祈の横に腰を下ろす。こいつは、さっきまで電話をしていたどこかの誰かと違って、自分の目の前に興味そそられるものがあっても、当人の行動の邪魔をしない性格なのが、幸いだ。だからこそ、気難しい祈との付き合いをこうして三年間も続けられているのだろうが。  ――筆を持ち上げると、祈はひどく、懐かしい気持ちに陥った。  こうして、実際に筆を手にとって色を塗るのは何年ぶりだろうか――祈は、柄にもなく、物思いにふけりながら、筆先にそっと、水を含ませた。じんわりと、筆の毛一本一本に水分が染み込み、筆先が少し、重くなる。絵具のチューブを絞り、パレットの上に、青色の半固体を出す。濡れた筆の先に絵具を乗せると、目の前の画用紙に、その青を、落とした。画用紙の中央から、青の波紋が、ゆっくりと、無音のまま、広がっていった。

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