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第九章 現実と真実④
母が死んで、祈はすぐさま施設に引き取られた。母は親戚との繋がりが希薄だった。葬式にも、彼女の職場の人間や、キリスト協会で知り合った友人数名しか参列していなかった。祈はというと、母の死に直面してからというものの、一切、喋れなくなってしまった。ショックだったのだろう。父や兄弟がいない祈にとって、母が家族そのもので、祈の世界のすべてだった。その唯一の家族さえもいなくなり、残された自分は、いったいこれからどう生きていけばいいのか――? 当然、六歳の子供にそんなことが分かるはずもなく、新しく住み始めた施設では、自分の部屋にこもって、画用紙にガリガリと鉛筆やクレヨンで絵を描き続けていた。
生前、母はよく、祈の絵を褒めてくれた。幼い頃から、祈は目の前に映し出される景色をそのまま絵で表現するのが好きだった。「祈ってば、本当に上手ねぇ」「将来は画家さんになれるわね」「いつか、お母さんの絵もかいてほしいな」そんな言葉を、祈にたびたびかけていた。
けれど幼い祈は、頑なに母の絵を描こうとしなかった。恥ずかしかったからだ。もしも描いて下手くそだと言われたり、母のリアクションが微妙だったら――そう思うと、怖くて描けなかった。そんな子供の臆病心があった。そして結局、彼女の似顔絵を描けぬまま、母親はあっさりとこの世を去ってしまった。
「――イノリ?」
碧志の声で、祈ははっと意識を戻した。前方には子供たちと職員たちが並んでぞろぞろと歩いており、祈の横には碧志がぴったりとくっついてる。
「わりぃ、ぼーっとしてた」
「ふうん。あ、ねぇ! きょうは僕がイノリにおごってあげるよ!」
「……お前、金持ってんのか?」
――彼には、万引き未遂の前科があることを、忘れてはならない。
「うん! きょうはお小遣いもらったから! イノリ、何か食べたいものあったら教えてね!」
碧志が、首から提げたかわいらしいがま口財布を掲げて見せる。
「へぇ、そりゃ楽しみだ」
「うん! ねぇ、屋台いっぱいあるね! イノリ、きになるおみせはある!?」
祈はとりあえずその場に見える限りの屋台をぐるりと見渡した。りんご飴、かき氷、金魚すくい、射的――
「――ねぇな」
「えぇっ!?」
「でも、そうだな……もしあれば、わたあめ、食いてえ」
「わたあめ?」
「あぁ」
「わかった! じゃあわたあめの屋台みつけたら僕が買ってあげるね!」
祈は、返事をする代わりに、自信満々に自分の胸を叩く碧志の頭へと、ぽんと手を乗せた。
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