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第九章 現実と真実⑥
それまで繋いでいた碧志の手をそっと離すと、職員の手に、しっかりと、握らせた。
「イノリ?」
「ちゃんとここで大人しくしてろよ」と、碧志に言いつけ、今度は職員にそっと告げた。「俺、ちょっと見てきます。こいつのこと、しばらく頼みます」
「え!? 祈さん!?」
驚く女性職員をよそに、祈はひとり、歩き出した。渋滞する、満員電車のような人混み。その僅かな間を縫って、前へ前へと進む。だんだんと、聞こえてくる。叫び声。やはりそうだ。これは、酔っぱらいの喧嘩じゃない。女の叫び声だ。
騒然とするその場を、大勢の客たちが少し距離を取りながら、固唾を呑んで、見守っている。
「あんたなんか死ねばいいのよ!!」
女が、叫んでいる。可愛らしい浴衣を着込んでいるのに、その襟元は乱れ、セットされていたはずの髪は今にも崩れかけている。
女の視線の先には、一組の男女が立っていた。男のほうは甚平を着て、女も浴衣でめかしこんでいる。こちらの彼女は、着物も髪型も、きれいに整えられたままだ。
「なんであんたなのよ! なんでわたしの彼氏をとるのよ!!」
「っ、それは……」と、整った彼女が言いよどむ。
――あぁ、これは、まずい。
「なんでよりによってあんたが……っ、わたしの彼氏をとるのよ!」
女は、男を勢いよく指差し、そして、じりじりと怒りを込めた目で、口裂け女のように大きく開いた口で、その激情を露 にした。
「わたしには、この人しかいないのよ! なんで他の男でも構わないあんたが、わざわざ私の彼氏と付き合うわけ!?」
女の目は、もう他の何も見えていないようだった。男もときおり、女を宥めようと言葉をかけるが、もはや焼け石に水だ。
――早く止めなければ。
なんとか女に近づこうと、祈は人混みの中、無理矢理に身体を前方に押しやる。
――と、ざわっと空気が揺れた。
「あんたなんか死ねばいいのよ!!」
女が、何かを振り上げている。きらりと光ったそれは、一本のナイフだった。
ようやく人混みを抜け出し、祈は女の元へ走った。怒気と憎しみを全身に滲ませた女が、男のすぐ横に立つ彼女に向かって、大股で近づき、ナイフを振り上げ、そして――
「ストップ」
――下ろそうとしたところを、背後から、祈の手が止めた。
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