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第九章 現実と真実⑧
パイプ椅子に大人しく座る彼女は、その細い身体以上に、とても小さく見えた。
「っ、ごめ、なさ……」
ひと目も憚らずに、しくしくと泣き、大量の涙を流しながら、先程から繰り返し繰り返し、壊れたロボットのように、謝罪の言葉を口にする。俯きながら、ときおり揺れる彼女の髪は、先程の騒動のせいで、崩れ、乱れ、刺さっていた簪も斜めの方向を向いていた。
祈は、何も言わなかった。子供のように泣きじゃくりながら謝る彼女の姿は、過去に祈が相対した――ひとりの女を想起させた。
その女は、小説家・ヨルのファンだった。芥川賞の記者会見を見て、彼に一目惚れをしたらしい。女は、真っ直ぐな人間だった。愚直に、ただ、彼だけを、愛していた。
彼のことを知りたい――いや、知りたいという欲求を自覚する前に、女は、彼のことを調べ尽くしていた。年齢、生まれ、家族構成、身長、体重、好きなもの、嫌いなもの。けれど、それだけでは足りなかった。もっと、彼のことを知りたい――いや、知らなければならないという己の本能に従って、女の行動は徐々にエスカレートしていった。
そして女は、とうとう、彼の住む場所を突き止めた。当然のように、毎日毎日そこへ通うようになった。ただ、彼は、学校には行かずに日中殆どの時間を自分の部屋で過ごしていたので、女は一日中、彼の住む施設の前に立っては、彼は今なにをしているんだろうか、と、うっとり考えながら、夜中までそこにいた。
そうして来る日も来る日も、彼のことを待っていると、ある日、彼がふらりと外へ出た。女は、心臓が飛び出るかと思った。
どうやら近くの店へ買い物に行くらしかった。女は彼のあとをつけた。彼が何を買って、どんな言葉を店員と交わし、どんな表情で店を出ていくのか、彼の一挙手一投足、その全てを自分の目に焼き付けておきたかった。女にとって、彼が、世界の全てで、女の世界には、彼ひとりしか見えていなかった。
しかし――気が付いたときには、女は、警察署に連れていかれていた。女は、警察官の話を聞くうちに、自分が何をしていたのか――四肢の端々からじわじわと自覚していった。話を聞き終えた頃には、その顔からは体内の血をすべて抜かれたかのように青白くなり、羞恥と絶望と嫌悪で悶え震えていた。幸い、被害届は出されなかったので大事にはならなかったが、女は、自分の熱に浮かされた非常識な行動と、それに対して沸き上がる、祈側の不安や恐怖の心情をようやく噛み締め、ただただ、謝るほかなかった。
『っ、ごめんなさい……ほんとうに、わたし……』
――蘇る、女の泣き崩れる姿。
ボロボロの髪と、乱れた浴衣で、枝垂 れ桜のように肩を落とし、謝罪する彼女が、一瞬――ダブって見えた。
祈は、買ってきた飲み物を彼女の足元にそっと置くと、椅子から立ち上がって、その場を離れた。
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