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第九章 現実と真実⑬

 その後、男に連れられ、彼女は、体調不良の客たちが治療を受けたり、その身体を休めるための、救護用のテントにやってきた。隣に座る男は、何も言わなかった。彼女は、ずっと、泣いていた。男の青い瞳を見た瞬間、今まで彼女を必死に奮い立たせ、哀れな現実と戦っていた理性も、自分の中で抑え込んでいた重苦しい思考も、何度も喉元までせり上がって来ては押し留め、心の奥で堰き止めていたはずの黒い感情も――その全てが、一瞬にして、弾けた。ぐちゃぐちゃ。ぐしゃぐしゃ。ぐるぐる。ずきずき。長い間、身体の中に渦巻いて溜まっていたものを全て吐き出そうといわんばかりに、彼女の目からは大量の涙があふれ、口からは、涎と嗚咽と、謝罪の言葉が止まらなくなった。自分でも訳がわからず、がくがくと顎を震わせ、ただただ泣きながら、謝罪をしていた。  思えば、彼氏のことがあってから、自分は誰にも相談せず、ひとりで抱え込んできた。もちろん、本当はいつだって、誰かに頼りたかった。誰かの肩に寄りかかって、傷ついた自分を、癒してほしかった。被害者である自分の話を聞いて、ただただ、慰めてほしかった。あなたはなにも悪くないよ、と、誰かにやさしく抱き締めてほしかった。  ――でも、そんなこと、できなかった。だって、恥ずかしい。自分の恋人を、大好きな親友にとられたなんて。恥ずかしくて、恥ずかしくて、口が裂けても、言えない。死んだ方がましだ。  悔しくて、苦しくて、彼氏とのデートや思い出を綴ったSNSの投稿は、一つ残らず、全て削除した。ぶるぶると震える手で、スマートフォンを握りしめながら思った。こんなもの、書くんじゃなかった、自分の幸せを他人に見せびらかすんじゃなかった――と。目からぽろぽろとあふれた悔し涙が、スマートフォンの画面にこぼれ落ちて、透明な水玉模様を作る。  今頃、きっと、わたしは笑い者だ。初めて恋人ができて浮かれて、はしゃいで、ずっとずっと、この多幸感の中で生きていくのだと、信じて疑わなかった。でも、それは結局すべて、熱に浮かされた、わたしだけが信じていた世界で、残酷な、嘘まみれの幸福だった。全部、嘘。嘘。嘘。ニセモノの言葉。空っぽの愛情。裏切りが詰まった、甘い逢瀬。  ――そうだ。なんで今まで気付かなかったのだろう? 本当のわたしは、誰にも愛されてなかったし、そもそも、誰にも必要とされてなかったんだ――  どれぐらいの間、そんなふうに馬鹿みたいに泣いていたのか、分からない。それは、たった数分ほどにも感じたし、三十分ぐらい経っているような気もした。  ――コトン、と足元に、音がした。  見ると、それは、彼女が大好きな、青と白の水玉模様の、甘くて冷たい、あのジュース。彼女の黒目が、一瞬、大きく開き、また、じわりと、涙が潤む。  彼女は、俯いていた顔を上げた。隣に座っていたはずの男が、彼女の元から去っていく姿が見えた。男の細い背中が、祭りの平穏で賑やかな空気に溶け込み、そして、人混みに紛れるように――ゆっくりと、その姿を消した。

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