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第九章 現実と真実⑯

「……あのおんなのひと、すっごく怒ってた」と、碧志が声のトーンを落として言った。そして、ぽつりと、付け加えた。「……ちょっと、怖かった」 「イノリは、怖くなかったの?」  祈は、碧志の顔を見た。 「うん」 「なんで? だって、ナイフとか持ってたんでしょ?」 「あぁ」 「なのに、たすけにいったの?」 「……そうだな」  碧志は、祈の行動原理を理解できないらしく、その眉間に深い皺を作っては、祈の様子を下からじいっと観察している。  祈は、再び話し始めた。「……さっきの人な」 「すっごく悲しくて、悔しくて、腹が立ったんだ」 「……だから、怒ってたの?」 「そうだ。だから、あの人は、悪者じゃない。ただ、ちょっと、不器用なだけなんだ」  自分と目が合った瞬間、泣きながら、その場に崩れ落ちる彼女を思い出した。頭に付けていた可愛らしい簪が、地面に落ちる彼女の動きに合わせて、がくんと揺れた。簪の先端についた小さな花飾りが、きらりと(くう)を舞った。 「……悪者じゃないの?」と、碧志が少しびっくりしている。 「うん」  子供でなくとも、あの修羅場に遭遇した誰もが、最初は彼女を、だと思うだろう。髪を振り乱し、怒りで叫び狂う姿に、周囲の観客たちは、戸惑い、ざわめき、動揺する。それまで平穏だった物語の展開を狂わせる、まさに悪役(ヒール)にふさわしい有り様だ。  けれど、違うのだ。彼女がああして身も蓋もないような行動をとるのにだって、ちゃんと、正当な理由はあるし、その根底にある真実はきっと―― 「そっか、そうだよね……だって、なにも、悪いことしてないんだもんね」  ひとつひとつ、これまでの経過を確認するように、碧志が頷く。 「そうだ」  目に見えるものだけが、真実ではない。己の目に見えるものは、真実の一番外側にある、うすくて脆い、一枚の皮膚にすぎない。  しかし、十九歳の祈の目はそれらの本質を見極める能力を、既に兼ね備えていた。彼の賢い理性は、その場を一瞥しただけでは、瞬間的に状況を察知しただけでは――決めつけることを、しない。これまでの経験で培った彼の知性が、それを、許さない。  祈は、己の価値観から生まれる善悪の基準のみで、判断をしない。したくない。なぜならそれは、とても、狭くて、脆くて、ひどく、偏っているものだから。そのことを――祈は、誰よりも知っていた。  自分の命を狙う恐ろしい敵だと思っていたものが、実は敵ではなく、ただただ、真っ直ぐすぎるほどの、純粋な愛の持ち主だったこと。自分を担いで、盛り上げてくれていたはずの世間が、実は自分に憐れみという名の視線を向けていたこと。  ――大切な何かを見落とさず、誰かを切り捨てず、立ち止まって、目の前に広がる現実に隠された真実(ほんとう)を、必ず、見極める。  俺はもう、見間違えたくない。見落としたくない。勝手に、決めつけたくはない――祈は、強く、そう願う。何故なら、その取り違いが――いつか、誰かを、傷つけることになりかねないから。  警察署で相対した、震える女の、縮こまった、息をするのも苦しそうな姿が、祈の脳裏を、ほんの一瞬、掠めた。

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