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第十二章 約束⑩
――窓の外では、蝉の大合唱が続いていた。古い古い扇風機が、カタカタとその羽を揺らしながら、部屋の主である祈に向かって、なけなしの風を懸命に送っていた。祈は、机にうつ伏せになっていた。彼の手の中には、先の丸まった鉛筆と、書きかけの原稿用紙がある。どうやら自分は、執筆中、いつの間にか眠りこけていたらしい。
祈は突っ伏していた顔を上げた。そして、ぱちぱちと目を瞬くと、小さく声を漏らした。「……え?」
原稿用紙のところどころに、水滴がついている。ぎょっとして、思わず自分の瞼に手をやる。そこには確かに――涙の跡があった。祈は絶句し、驚きのあまり、二、三秒、その体勢のまま、硬直してしまった。
――何で、泣いてたんだろう。自分は。
目元を拭った指先を見つめる。久しぶりに、母親の夢を見たせいだろうか。あれは夢だったが、祈自身が経験した過去そのものだった。五歳の誕生日、確かに自分は母親と共に彼女の故郷を訪れ、ああして美しい海を眺め、ふたりで穏やかな浜辺を歩いた。そして、あの、約束を交したのだ。
――祈が二十歳になったら、彼女とふたりで再びこの海を訪れて、一緒に写真を撮る、と。
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