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第十二章 約束⑪

 その約束が、夢越しではなく、こうして現実の世界で祈が再び思い出した瞬間、長い間胸にずっと詰まっていたものが溶けてゆっくりと流れ出すように、彼の碧眼から、また、涙がぽろぽろとあふれて落ちてきた。 「……?」  祈はわけも分からず、ひたすらに、自らの瞳から流れてくるその涙を、手の甲や指の腹で押さえた。しかし、どれだけその伝った跡を拭っても、涙は、あふれて、あふれて、止まらなかった。ぽろぽろと、ぽろぽろと、ただ、流れ続ける。ゆっくりと、けれど絶え間なく、こぼれて、落ちる。原稿用紙にその水滴が降り注ぎ、しわしわと、紙の表面が、ゆれて、歪んで、濡れていく。分からない――なんだ、これは。何の涙なんだ?  ――美しくまばゆい地平線を、名残惜しそうに眺めていた母親の横顔を思い出す。あのとき、彼女の瞳にはいったい何が映っていたのだろうか。彼女は、何を考え、何を、見つめていたのだろうか。自らが育った街の、思い出深いあの海と、どんな言葉や、どんな気持ちを、そして、どんなやりとりを――幼い息子の傍らで、彼には見えない感じ取れないその心の中で、交わしていたのだろう。  そっと、原稿用紙に視線を下ろして、祈は、考えた。もちろん答えなど分からない。けれど、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。むしろ、身体全体が温かく、胸が熱く、大きな何かに包み込まれるように、やさしい感情にすら、なった。だから余計に、祈はこの涙の理由が分からなかった。手元にある、涙の跡がいくつも降り注いだ原稿用紙から、窓の外に映し出された、夜のはじまりを知らせる夕焼けへと――祈は、視線を、ゆっくりと、動かした。

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