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第十三章 八月三十一日⑭
碧志は原稿用紙が入った茶封筒をぎゅっと両手で握りしめると、リュックを背負い、しゃがんで靴を履いた。祈は黙って、そんな彼の後ろ姿を見守る。
「じゃ、じゃあ……帰るね」
「――あぁ」
靴を履き終え、立ち上がった碧志。しかし、ドアノブに手をかける直前――急にくるりと振り返って、祈の胸に勢いよく飛び込んできた。
「っ、やっぱり、さびしいよ」
「ははっ、本当に泣き虫だな、お前は」
「っ、イノリはさびしくないの?」
「……」
祈は黙って微笑むと、首元から十字架のネックレスを外し、碧志の手にそれを握らせた。
「イノリ……これ」
「やる」
「えっ! でもだいじなものなんでしょ?」
「あぁ、でも――もう、いいんだ」
――祈は思い出す。今から一ヶ月前、暑い暑い、炎天下の公園で、このネックレスを、自分に渡すためだけに、彼がひとり、ベンチにじっと座っていた姿を。
神なんていない。救いなんてものも、ない。けれど今の祈には――この、碧志という少年が、いる。それだけで、もう、俺は――
「さびしくなったら、それ見て、思い出せ」
「っ、うん」
微笑んで頷く碧志の頭を、祈は満足げにくしゃりと撫でた。
「じゃあ! また明日ねっ! 始業式終わったらすぐくるから!」
「――あぁ、待ってる」
ぎい、と錆びついた音を立て、玄関の扉が開く。碧志がドアノブを押しながら、ゆっくりと、外へ出ていこうとする――彼の身体に、空から降ってきたオレンジ色の夕日が反射する――
「――碧志!」
祈の呼びかけに、碧志が振り返る。その小さな身体に、大きな茶封筒と、青い絵と、十字架のネックレスを抱えて――
祈は、言った。たったの、五文字。ずっと伝えたかった、彼に対しての想いを。
碧志が微笑んで、頷いた。そして、今度こそ――彼は家を出ていった。
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