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第十九章 青の時間⑩

『ただいま』の笑顔で上がっていた碧志の口角が、ぎこちなく、下がる。誰も、何も、言わない。ただ、唐突に登場した碧志という闖入者を、遠巻きに、息を潜めて、震えながら見ているだけで。 「……なにか、あったの?」  ようやく、その言葉が、碧志の口から、出た。職員の一人が、ゆっくり、ゆっくりと、慎重に、こちらに近づき、碧志の肩に、そっと、手を置いた。彼女の手は、異様に白く、かたかたと小刻みに揺れていた。碧志は、そのあまりの震えに、彼女が薬指に嵌めている指輪が落ちてしまうのではないか、と場違いなことを考えた。  碧志は己の肩にかけられた手を見、そして、職員の顔を見た。  彼女が、真っ青な唇を動かした。  そこからの記憶は、ない。  ――気付いたときには、祈のアパートの前に立っていた。つい昨日まで毎日通っていたその場所は、黄色いテープが張られ、立ち入り禁止と赤く大きな文字で書かれていた。道端には、パトカーが何台も停まって、ときおり、警察官や刑事だと思われる大人たちが出入りをしていた。テレビのクルーや、野次馬たちが、アパートの敷地の外をぐるりと覆うように集まり、あたりは騒然としていた。そのあまりに物々しく非日常な雰囲気に、碧志は、まるで、違う世界に迷い込んだ気分になった。口で、呼吸をするのが、精一杯だった。何事かと騒ぎ立てる人々の喧騒さえ、碧志の耳には、いっさい届かなかった。もう――何もかもが、夢のようだった。

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