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第十九章 青の時間⑫

 涙は、出なかった。その代わり、祈が最期に告げた、たった五文字の言葉が――何度も何度も、絶望で意識が遠のきかける碧志に、呼びかけてきた。 『――愛してる』  何で、急にあんなことを言ったのだろうと、碧志は内心びっくりしたのだ。思えば、彼が、碧志に対して抱く気持ちや感情のようなものを自主的に伝えたのは、あれが初めてのことだった。それでも、碧志は、嬉しかった。だって、自分も、この世の誰よりも――彼のことを、愛していたから。  ――彼は、もしかしたら、何か、感じ取っていたのかもしれない。予知とまではいかずとも、それこそ、予感めいたものを。彼自身も、無意識のうちに。と、彼の潜在意識が、呼びかけていたのかもしれない。だからああして――普段は絶対に言わないような愛の言葉を、自分に伝えたのかもしれない。 『――愛してる』  あの言葉を告げたときの祈の表情を思い出す。とても、とても、やさしい顔だった。ずっと見ていたいぐらいに、この世の誰よりも、きれいな笑顔だった。和室の窓から差し込んだ夕焼けのやさしい光が、女神のように微笑む彼の姿を、やわらかく、まぶしく、包み込んでいて――そのあまりのやさしい表情に、碧志の目には、涙さえ、浮かびそうになった。泣きたいのを必死にこらえて、碧志は、がんばって笑顔で頷いたのだ。  ――気付いたら、あたりは真っ暗になっていた。目障りなパトカーの赤いランプが、碧志の瞳に反射し、呆然と立ち尽くす碧志の視界を、何度も何度も通過した。殺人事件の起こったアパートが、目の前にあった。一日前には、このアパートに彼の死体があった。二日前まで、彼はここに住んでいた。生きていた。  寝静まった閑静な住宅街に、物言わぬ不穏が、波紋のように広がっていく。碧志の足は、地面から生えてしまったかのように、ぴくりとも動かなかった。ただひたすら、彼の、生きていた彼の姿を思い出そうとした――しかし、うまくできなかった。さっきまで、碧志の頭の中に浮かんでいた笑顔の彼は、もう、いない。反対に、今碧志が想像できる彼は、血まみれで、倒れている姿――自分は、を、見てもいないのに――碧志の中の彼は、いつの間にか、見るも無残な屍になっていた。  夜になっても帰ってこないと、血相を変えた施設の職員とリクトが街中を探し回って、ようやく見つけた碧志の肩を掴むまで、碧志はずっと、祈のアパートの前に立っていた。

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