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第十九章 青の時間⑬
あの、十年前の夏――祈と過ごした一ヶ月で、いったい自分の中で何が起こっていたのだろう、と、今になって、よく考えるようになった。
「碧志くんが最近よく笑うようになった」と、施設の職員たちがこっそり泣きながら話しているのを聞いたとき、碧志は驚いた。自分はふつうに笑っていた、いや――笑えていたつもりだったのに。物陰に隠れながら、碧志は、思わず自分の頬に手を当てた。そして、嬉しさと恥ずかしさ、また、ちょっぴり照れ臭い気持ちが――幼い碧志の心を交互にくすぐった。
――イノリって、やっぱりすごい。
祈は、長い間心から笑えていなかった自分を、本当の笑顔の世界へと連れて行ってくれたのだ。職員の会話を聞いて、自分の笑顔を取り戻してくれた祈のことが、今までより、もっともっと、大好きになった。
――笑顔。
笑顔というと、きまって彼の、プールで見せてくれた、あの、太陽のようなまぶしい笑みを、思い出す。
彼は、あまり、笑わない人だった。元々感情が表に出にくい気質なのだろう。大抵は無表情だった。碧志との会話の中で、ときおり、怒ったり、呆れた顔をすることもあったが、彼の心の底からの笑顔を、碧志は見たことがなかった。
『……イノリって、あんまり笑わないね』
『そうか?』
『そうだよ~! イノリ、せっかくいけめんなんだから、もっと笑えばいいのに!』
祈はもしかしたら、笑い方を忘れてしまったのかもしれない――幼い碧志は考えた。きっと、笑ったらびっくりするぐらいきれいなんだろうな――それこそ、女の子なんか、一目見て惚れちゃうぐらいの――と、文庫本片手に読書に集中する祈の端正な横顔をこっそり眺めながら、まだ見ぬ彼の笑顔を頭の中で勝手に想像した。そして、何度も何度も繰り返し想像していたら、やっぱり見てみたくなったのだ――彼の、心の底からの、まぶしい笑顔を。
だから、夏祭りにも誘ったし、プールに行こうとも思った。ただ、当時の自分がどれだけ真剣に考えていたのかは、分からない――何せ、まだ子供だったから。碧志自身が、ただただ祈と過ごしたい一心で、でもその裏には、たぶん、孤独な彼をあの部屋から連れ出して、色んな景色を見て、世の中を幸せだと感じてほしい――そんな気持ちがあったのだと思う。
そして、そんな子供ながらにも、碧志なりに彼を慮る心境があったからこそ、プールで彼のあの笑顔を見たときは、心が震えるほどに嬉しかった。ずっと見つけられなかった、ずっと探し求めていた、自分にとってこの世でいちばん大切な何かに、ようやく巡り会えたような、ようやく出会えたような――これまで訪れることのなかった『奇跡』を、目の当たりにしたような感覚だった。碧志は泣きながら彼の名前を呼び、祈の身体に勢いよく抱き着いた。彼は、くしゃくしゃっと笑って、いつもみたいに自分の頭を、やさしくやさしく、とても愛おしそうに、撫でてくれた。
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