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第十九章 青の時間⑮

 ――それまで碧志は、自分という人間を、重く捉えたことがなかった。いい意味でも悪い意味でも、自分自身に対して執着や愛情や人間的価値を、感じたことがなかった。七歳の事故以来、特にそう思うようになった。  碧志には、自分を抱き締めてくれる親はいない。無条件で愛を注ぎ、何かあれば全力で駆け付け、自分の身を挺してでも守り、人生のどんな瞬間においても、碧志という人物を己の優先順位の一位にしてくれる人間は、いない――そう、思っていた。  ――けれどあの日、全身汗だくで現れて、自分の名を大きく叫び、男に勢いよく飛び掛かり、我を忘れるほどに男を殴り、殺そうとまでする彼を見て――碧志の中で、自分という人間の価値が、揺らいだ。自分は、誰かに守ってもらえるような、尊厳高い人間ではないはずでは? 自分は、自分は――何よりも助けてほしいときに、誰かに全力で救ってもらえるような、そんな、幸運で、恵まれた人間ではなかったはずだ――脳裏に過った。宙吊りにされた八時間。病院のベッドの上から動けなかった半年間――誰も、誰も、助けてはくれなかった。恐怖で身体が竦むような高さで宙吊りにされながら、どれだけ心の中で叫んでも。ベッドの上で意識が朦朧としながら、自分の手を握ってほしいと誰かの体温を求めても。そう、誰も――誰も自分に、手を差し伸べては、くれなかった。だから耐えるしかなかった。心の中で、赤ん坊のように泣き叫ぶ弱い自分を、必死に押さえつけて、その息の根を止めた。何度も何度も、止めた――そのうちに、泣くことも、なくなった。恐怖も痛みも、感じなくなった。碧志の心は、平穏を取り戻した。何かに揺らぐことも、囚われることも、なくなった。しかしそこには、色も温度も、なかった。彼の心は、氷のように、冷え切っていた。  ――殴っている。祈が男を殴っている。自分を攫おうとした男を、殴り、脅し、絞め殺そうとしている。  何故だ――? 碧志には分からない。理解できない光景が、これまで目にしたことのない情景が、目の前に、ある。それは、幼い碧志が、ずっとずっと、心の底で求めていたもので――彼の両親や、医師や看護師や記者、これまで碧志の周りにいた大人たちが、必ずやるべきで、けれどその責任を放棄してきたものであり――愛される人間が、必ず持ち合わせているもの――  祈が、誰より優しいあの祈が、これまで見たこともないような冷酷な表情で男を殴り、全身から怒りを滲ませて、絞め殺そうとまでしている――  ――その姿を見て、碧志は、気が付いてしまった。  彼に助けに来てほしいなんて一ミリも思っていなかったのに――彼を、心のどこかでずっとずっと求めていた自分がいたことに。

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