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第二十章 神への祈り⑤

 あの人が最期に描いた物語『九月の景色』――碧志があの日、ポストに投函するように頼まれたものだ――は、出版後またたく間に重版され、世間の話題を呼んだ。臨月を迎えた母親が、九月に生まれてくる我が子と、同じ身体の中で一緒に過ごせる最後の一ヶ月を、慈しみながら送る、美しい八月の夏物語。『根暗作家』と称される彼にしては珍しい、心温まる、眩しい光に満ちたハッピーエンドだった。  ――病室の窓から見える美しい海を眺めながら、母親である彼女は「九月になったら一緒にこの海を見に行こうね」と、腹の中にいる我が子に声をかけ続ける。実は、母親は数年前に一度、流産を経験している。彼女の隣には、夫であり父親でもある男がいた。彼は臨月にまるまる仕事の休暇をとっては、毎日毎日病室を訪れ、赤ん坊が元気に生まれてこられるように、祈りを込めて、たくさんの折り鶴をつくる。我が子の誕生の瞬間を、心の底から楽しみに待ち侘びる――そんな彼に向かって、彼女は微笑んで、言うのだ。 「ねぇ、早く、この子に、九月の景色を見せてあげたいわね。だってこの世は――」

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