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03.
体の節々が痛い。ただ、それよりも心が満たされているような感覚で、どこか落ち着かない。体はどこもベタついていないし、自分の物ではないシャツが着せられている。重たい体を持ち上げて辺りを見渡すが、彼は何処にも見当たらなかった。
セックスの後に相手が居なくなるなんて一晩限りの相手では良くある事だったが、どうしてか少し胸が痛かった。荒っぽく髪を掻いて深いため息を零した。顔を洗おうと立ち上がった時、昨日少し飲み過ぎたせいか軽い頭痛が襲った。改めて見ると広々としていて贅沢な部屋だ。インテリアの一つ一つでさえ上品さと高級感に溢れ、凡人の俺にはあまりに場違い過ぎる。
顔を洗って寝室へ戻ると、ベッド横の小さなテーブルにメモの切れ端を見つける。何かと思いながら目を通すと、達筆のメモと電話番号が記載されていた。
『おはよう。俺は仕事だから先に出るよ。お金はもう払ってあるから気にしないで。昨晩は無理をさせて申し訳ない。明日もあのバーに行くよ。また君に会えると嬉しい』
一目見た時から思っていたが、裕福さを思わせる立ち振る舞いにこのホテルだ。あのバーで俺に話し掛けてきたくらいだから、同じシェクシュアリティなのは間違いないだろう。
あんなに愛のあるセックスをしたのは初めてだった。少なくともあんなに我を忘れて乱れたのは初めての事で、あんなに激しくて……
「……っ」
昨晩の事がまざまざと思い出されるようで、思わず頭を振った。次、会ったらどんな顔をすればいいのだろうか。きっと出会った時のようには冷静に話せない気がする。なんて、柄にもなく緊張してしまっている自分がいて。
今日は大学の講義は無く、午後からのバイトのみだ。荷物をまとめると、先程のメモを鞄に仕舞って部屋を後にした。
最近始めた飲食店のバイトはなかなかやり甲斐があって楽しい。表ではなく裏方で料理の仕込みをするバイトなのだが、毎回賄いを頂くという一人暮らしには嬉しい特典付きだ。
時刻は午後九時を少し過ぎた頃。予定より遅くなってしまったが、今日もあのバーに行く俺の日常は変わらない。
俺が通うバーの名前は“charme ”。どんなセクシュアリティを持った人間でも丁重に持て成して、来てよかったと思わせる。酒の種類も豊富で俺のように酒が弱くても、或いは飲めなくても楽しめる。
もう我が家のように見慣れた扉をそっと引いて中へと足を踏み入れる。そうして顔を上げた時、俺は分かりやすく顔が引き攣った。目の前のカウンターでは、慣れ親しんだカエデと楽しそうに談笑する橘さんの姿があったからだ。構えてはいたが、やはり対面するのとは違って出直そうかともう一度扉に手を掛けるが、失敗に終わる。
「あっ、しーちゃん!待ってたのよ〜遅かったわね」
俺に大きく声を掛けるカエデと同時に視線を寄越した橘さんは、俺を見ると目元を緩ませた。昨日ほんのり酔っていても思ったが、どこか日本人離れしたような端正な顔立ちで、しかし笑うと可愛い。
「…うん、バイト長引いちゃって」
「お疲れ様、また会えて嬉しいよ。織 」
「俺も、です。橘さん」
不意に名前を呼ばれて心臓が跳ねる。今日も上質なスーツに身を包んだ彼は美しい低音で俺の言葉を紡ぐ。その薄い唇で塞いで欲しいと思うくらいには、彼の虜になっていた。
「二人でじっくり話したいだろうから、私は離れるわね。しーちゃんはいつものお酒でいいわよね?」
「いや、今日はお酒はいい。ノンアルで何か作って」
「あら、珍しいわね。…りょーかい♡」
彼の視線に促されるまま、隣の席へ腰を下ろす。手元には大ぶりの氷が入ったグラスに、琥珀色の酒が注がれている。横にはボトルが置かれていて、ウイスキーを頼んだのだと把握する。昨日も思ったが、きっとかなり酒が強いタイプなのだろう。現時点でボトルは半分程減っしまっているが、彼は顔色一つ変えず酔いの気配さえ感じない。
「橘さんは…ご結婚されてないんですか?」
暫く世間話をした後、そう切り出したのは俺だった。そんな質問が出てきたのは自分でもわからないくらい無意識で、声に出した後後悔したのは言うまでもない。
「……君には俺が節操のない人間に見えるのか?」
刹那、空気がピリつくのを感じて思わずグラスを握っていた手に力が入る。左手の薬指には指輪なんて見当たらない。けれどこういう場では付けていないだけ、という可能性も充分にあった。
実際、過去に一度付き合った恋人にそういう例があった。勿論彼がそんな事をするような人間に見えた訳ではないけれど、なんとなくぽろりと口から零れた言葉だった。
「…いえ、違うんです。ただ…貴方みたいな人が俺なんかに声を掛けてくれるなんて、まだ信じられなくて」
ノンアルカクテルに浮かぶ氷が、溶けだしてカランと音を立てた。
「君は自分がどれ程魅力的なのか、理解した方がいい」
ほんの少し間を置いてから、彼の口から吐き出された言葉に思わず振り向いた。
視線が絡まって、伸びてくる彼の手を拒む事はしなかった。そっと優しく唇を辿る指は熱くて、じりじりと体が火照っていくような気がした。このままキスをされたら、きっと気持ち良いに違いない。
「あの…この後、予定ありますか?」
「……いいや?」
「……貴方に抱かれたい」
消え入りそうな声で絞り出したそれは、はっきりと彼の耳に届いたようで、少し面食らったように目を見開いていた。
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