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05.
あれから二日。俺にとって拠り所だったcharmeに行けないのは何より悲しいが、それよりも今は彼に会いたくなかった。家と大学、それからバイトを行き来する毎日。友人と遊びに行くなんて柄じゃないけれど、楽しみがない毎日は退屈だ。とはいえ、charme以外のバーに行こうなんて考えはなかった。
「阿澄、今日暇じゃない?」
ぼんやりと外の景色を眺めている間に講義が終わっていたらしい。声を掛けてきたのはこの間も誘ってきた男、成宮 。彼はそう言って隣に腰を下ろした。
「……まあ」
「おっ、じゃあ俺らと合コン行かね?費用は俺らが負担するからさ、阿澄が来るなら女子絶対喜ぶし!」
後者に関しては心底どうでもいいが、今日はバイトも休みで何もする事がないし、特別に乗ってやる事にした。
「いいよ」
「マジで?んじゃあ19時集合な!場所は後でLINEするわ」
「わかった」
タダで美味い飯が食えるなら良しとしよう。机に広がったままだった教材を片付けると席を立った。スマホに映し出された時刻は午後一時。一度家に帰って昼食でも作ろうと考えその場を後にした。
教えられた店はカジュアルな居酒屋で、綺麗な夜景がよく見える個室に通された。俺が来た時にはもう皆集合していて、自然と空いていた席に腰を下ろす。控えめなシャンデリアが暖かな照明を灯していて、ゆったりとしたBGMが流れた落ち着いた雰囲気の店だった。
既に食事は運ばれていたが、俺を待っていたらしい。座るなりメニューを渡され適当に酒を頼んだ。隣には何処かで一度見た事があるような女がいて、ふわりと特有の甘い香りがした。
「阿澄くん、今日は来てくれてありがとうね。一度話してみたかったんだ」
「…ごめん、名前なんだっけ?」
「え…あ、そうだよね。ごめんね、私は藤野 っていうの」
彼女は緩く巻かれた淡い栗色の長い髪を揺らしてそう言った。不思議と嫌な感じはしない、控えめな印象だった。俺と彼女以外には男女三人ずつがいたが、自然と二人一組になっていた。
「…阿澄くんって、彼女いないの?」
暫く話して、開始から一時間が経った頃、二杯目のレモンサワーが運ばれて間もない。彼女の言葉に冷え切ったレモンサワーを一口飲んでから口を開いた。
「……いないよ」
好きな人ならいる。正確には“だった”、にしてしまいたい。男同士じゃ幸せになれない。なんていい加減な理屈は嫌いだったが、自分のセクシュアリティを隠して女と付き合うなんて事は、当然だが考えていない。だから無駄に期待を持たせるなんて事もしたくない。
「そっか…」
「藤野さんって一目惚れって信じる?」
「え…?」
「ああ、ごめん。純粋な質問なんだけど。どう思う?」
彼女は困ったように眉を下げて、それから少し考えるように視線を落とした。
「…私は信じるよ。目が合った時にビビッときて、あ、この人だって思うの。それからその人の事見るとドキドキして、話すとやっぱり好きだなってなるの」
綺麗に整えられた爪先には可愛らしい桜色の装飾が施されていて、俺には少し眩しい。
「なんか経験あるみたいだね」
俺が薄く笑いながらそう言うと、彼女は顔を可哀想なくらい真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。まずい事を言っただろうかと思いながらレモンサワーを呷った。
「…私ね、今日は純粋に阿澄くんとお話して友達になりたかったの」
いつもと違った酒場の雰囲気に程よく酔いも回ってきた頃、同じくほろ酔いの状態で彼女は続けた。
「阿澄くん滅多に合コンなんて来ないから、今日来るって聞いてチャンスだって思ったの。不快にさせちゃったらごめんね。言わなきゃダメな気がして」
「……俺も、藤野さんに言わなきゃいけない事がある」
「…え?」
「来て」
薄々感じていた彼女の好意。こういう場なのだから何も問題のない事だが、俺がそれを貰うには勿体ない。やはりこの場に来るのは間違っていた。今更後悔したってもう遅いけれど。俺は戸惑う彼女の手を引いて席を立った。部屋から出ると周りは個室の為、通りには誰もいなかった。
「…阿澄くん?」
「俺…本当はゲイなんだ」
「…え、」
「女の人に興味がないんだ。ここに来といて何でだって話なんだけど、ごめん」
彼女は大きな瞳を更に大きく見開いて酷く驚いたようだった。念の為周りに聞こえないよう小さく話したが、きっと賑わいに紛れて誰の耳にも入っていない。
「……そう、なんだ」
彼女は視線を落として、小さな手を体の前でキツく握り締めたまま小さく呟いた。
「でも、話してくれてありがとう。きっと凄く勇気がいる事だよね。…阿澄くんさえ良かったら友達になれないかな」
もしも彼女が他に言いふらしたなら、それでもいいと思っていた。けれど俺には彼女がそういう人間には見えなかった。
「…もちろん。俺で良かったら」
そっと微笑むと、彼女も嬉しそうに微笑んだ。
それから俺は手洗いに行くからと彼女を部屋に戻して、入り口の近くまで足を運んだ。この居酒屋は奥に個室があり、入り口付近にはカウンター席とテーブル席がいくつか設けられている。手洗い場から出ると、個室へ戻ろうとした時だった。
「……っ」
視線の先にいた人物は今一番会いたくなかった彼で、端のテーブル席で女性と談笑しているようだった。幸いこちらからは彼の背中が見える角度だったが、時折見える横顔は紛れもなく橘颯汰のそれだった。
向かいには上品な女性が座っていて、二人の空気には気品が溢れていて純粋にお似合いだった。側から見ても仲睦まじそうに話す二人に、胸が小さく痛んで、次にイラついた。二人の関係性なんてまるで興味がないし、俺にとって彼は何でもないわけだが、この黒い感情に嘘はつけなかった。
「ごめん、俺急用出来たから帰る」
騒ぐ皆を無視して荷物を取ると足早に店を後にした。
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