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06.
「今日は強いお酒がいい」
すっかり覚めきってしまっていた頭で、迷うことなくcharmeに訪れた。ここにいないとわかっているのなら、来ない理由がない。入店して早々項垂れるようにカウンター席に座った俺にカエデさんは驚いた様子だった。
「しーちゃん、何かあった?」
「……」
突っ伏したまま何も答えない俺に、カエデさんはそっと頭を撫でてくれる。全てを察して何も聞かないでくれる。そんな所も好きだったが、カエデさんには隠し事はしたくなかった。というか、誰かに聞いてもらわないとどうにかなりそうだった。
「…カエデさん、ちょっと付き合って」
比較的客足が少ない日曜の午後九時過ぎ。カエデさんが好きなジントニックを奢って、彼との出来事からつい先程あった事まで詳細に話し出した。
とにかく酔って、今だけでもいいから彼の事を忘れたい。それが本心だった。普段と違う勢いで飲む俺にカエデさんは心配して何度も声を掛けてくれたが、酒が弱い俺はあっという間に酔っ払ってしまった。
「……もういっぱい」
「ダメよ。もうお終い。ほら、水飲んで。酔い覚まさないと一人で帰れないでしょ?もうとっくに終電過ぎてるんだから」
「……カエデさんのいじわる…」
「やだ、可愛いからやめてよ」
氷によってキンキンに冷やされたグラスを頬に当てられて、思わず小さく悲鳴を上げた。渋々、といった様子でグラスを受け取ると一気に喉へと流し込んだ。酔いで火照った体に冷たい水が染み渡っていく感覚は気持ち良い。ああしかし、せっかく酔えていたのに覚めてしまった。
ぼんやりとただ一点だけえお見詰めて、やはり空っぽになってくれない頭の中には先程の居酒屋での光景が鮮明に浮かぶ。らしくもなく頭を荒っぽく掻いて、深いため息を零した。
「……セフレから恋人って、なれると思う?」
小さな囁きにグラスを拭いていたカエデさんがクスクスと笑う。よく考えてみれば、俺は彼の事を何も知らない。仕事も趣味も誕生日だって知らないし、年齢だって知らないのに。話した時間はごく僅かでも、この感情を言葉に表すのなら恋が正しい。
「なれるかどうかじゃなくて、好きかどうかだと思うけど。彼の事、好きなんでしょ?」
「……うん」
「だったら、一度ちゃんと話すべきじゃない?」
でも彼はここに来てくれるかわからない。会ったらまた逃げ出してしまいそうだ。
「カエデさん、ありがとう。少し楽になったし、俺はもう帰るよ」
「もう酔いは覚めた?ちゃんとタクシー呼ぶのよ」
「わかってる」
カエデさんは俺に対して少し過保護な気がする。午後十一時を過ぎてしまっていて、辺りはすっかり夜が更けていた。家まではそう遠くなかったが、大通りに出たらカエデさんの言う通りタクシーで帰ろうと考えていた。
カエデさんに外まで見送られるままひらひらと手を振る。夜中とは言えどどこもかしこも眩しいくらい明るいし、人もちらほら歩いているから全く問題はない。
「織 ……?」
妙に聞き覚えのある声に寒気がした。勢いよく振り返れば、記憶の片隅で消えかかっていた男の顔があった。今から約三年前、ほんの数ヶ月付き合っていた晴翔 だ。
当時十八歳だった俺は右も左もわからないまま彼と出会い、初めてセックスをした。好きだと言われて、まんまと信じた俺は彼に堕ちていった。彼が既婚者だと知らずに。そう、言ってしまえば俺は不倫相手だったのだ。その事実は彼の口から直接聞かされ、挙句「飽きた」という理由で捨てられた。
その時俺は人生で一番腹が立ったと言っても過言ではない。何より悲しかったし、騙されていた自分が情けなくて悔しかった。それ以降恋愛には奥手になってしまい、なかなか他人を信用できない。
「…なん、で」
俺の“トラウマ”である彼が何故こんな所にいるのかなんて心底どうでもいいが、逃げ出したいのに足が竦んで動けなかった。俺とは正反対に男は馴れ馴れしく肩を組んできた。
「やっぱり織だよな!こんなとこで会うなんて偶然すぎるだろ」
人の気も知れずカラカラと笑う男は三年前と何一つ変わっていない。
「…離せよ」
「はあ?つれねぇな、久しぶりに会ったんだからしっぽり話そうぜ。…ラブホで、さ」
「っ、」
相変わらずのクズ具合に頭に血が上って行くのを感じた。密着してくる体を引き離そうとも飲み過ぎたせいで上手く力が入らない。耳元で語りかけるそれは不快でしかなくて、必死に抵抗を試みた。
「アンタ最低だな、本当に。俺は一生忘れないからな、アンタが俺にした事」
「あ?…あぁ、別にアレは未遂だろ。お前男なんだし。それとも今更惜しくなったかよ?俺が誘ったら簡単に股開いてたくせに」
まるで誰にでも、というような物言いに言葉も出なかった。簡単になんて許すものか。俺はアンタの事が、本気で……
「まあ安心しろよ。もうアイツとは離婚したし、不倫にはなんねぇよ」
ほら、と翳す左手には確かに指輪は見当たらない。大方こいつの浮気が原因で別れたのだろう。悪癖は悪癖のまま、改める事はなかなか難しいものだ。今となってはこんなクズ男のどこに惹かれたのかまるで理解出来ないが、それもこれも俺の男運の無さが原因だ。
「…思い上がるなよ、お前なんて願い下げだ。土下座されたってしてやらない」
渾身の力を振り絞って男の足を踏み付けた。本当は気が済むまで顔面をぶん殴ってやりたい所だが、警察のお世話になるのだけは避けたい。言いたい事を吐き捨てて、腕が緩んだ隙に素早くその場を走り去った。今度こそ、きっともう会う事はないだろう。
走って、走って、息が切れるほど走り続けた。結局はタクシーを使わずそのまま家に辿り着いてしまった。息を整えると疲れ切った体を癒すべく風呂に入った。それから明日に差し支えないようミネラルウォーターでしっかりと水分補給をして、倒れるようにベッドに体を預けた。
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