2 / 40

第2話 6月25日 2:00 初期情報

 くらくらするような快楽と興奮、そして混乱する頭の中で、必死に記憶を遡る。  ついさっきまで、俺は、途方に暮れて道を歩いていた。  年度末も近い3月20日の、たしかちょうど昼ごろだった。  襲い満開を迎えた桜が花吹雪を散らす美しい街並みとは真逆に、俺の足取りはひたすら重かった。  その理由は簡単で、俺はほぼ無一文。  手元にあるのはスマホのみ。  それは多少なり財産というべきものではあったが、それ以外、俺には何もなかった。  住む場所さえも、ついさっき失った。  元より古びた学生寮は、老朽化のため取り壊しが決定した。  そして学生たちには新たな住居が紹介されたものの、もう卒業してしまった俺はそんな気遣いをされる資格はなく――  そして学生ではないくせに世間的に見て他の何者でもない俺は、住処を失った。  田舎から無理言って出てきた以上、実家からの援助は期待できない。 「ひとまずは……ネカフェかな……」  とりあえず今後の動向に頭を巡らせながら、ゆっくりスマホで周囲の安い住処を検索していた。  ……はず、だった。  なのに、何故、俺は今男とベッドの中にいるんだろう。 (俺の欠片がいくつにも千切れて四散した――) 「……えっ?」 (その時、背筋が凍えるような轟音を耳にした――) 「え……っ、え?」  突然、世界がひっくり返るような眩暈と共に脳裏に奇妙なイメージが走った。 「どうしました?」 「え……っ」  だがそれは、俺を抱き締めている男の声に乱された。 「え……あっ」  ぼんやりと記憶を漂っていた俺は、はっと現実に引き戻された。  俺……俺は。  気が付けば男とベッドに入っていて……せ、性行為までして、更にあろうことかそれに感じて相手を求めてしまっていた! 「文さん」 「あ……よ、寄るなっ!」 「えっ」  慌てて男から身体を引き離すと、大きく距離を取る。  といってもひとつのベッドの上。  かろうじて密着状態から脱出した程度だったが。 「文さん……?」 「あ、お前……!」  距離を取ったことによって、はじめて相手の顔を真正面から見た。  そして、息を飲む。  薄暗闇でもよく分かる、体格がよく目鼻立ちのはっきりした整った……整いすぎた顔の男性。  その眼尻は俺を見て心配しているかのようにやや下がり、それが人の好さを現しているかのようで、彼自身の整った顔の造形を逆に引き立たせていた。  一度見れば忘れられないほどに。  そう、俺は、彼を知っていた。  王子……通称『王子』と呼ばれている、俺の後輩……だった男。  たしか本名は…… 「は、八王子 響(はちおうじ ひびき)か……?」 「そうですが、どうしました?」  一糸纏わぬ姿で、だけど引き締まって筋肉がしっかりついているので見惚れるほど均整のとれた裸体のまま、八王子は首を傾げ俺を見る。  汗で額に張り付いていた髪の一部がさらりと流れ、それだけでひとつの絵のようだった。  ほんの少しくせのある髪の毛すら、王子らしさを引き立てている気がしてくる。  俺の方はといえば長年のインドア生活が長いせいで身体にはほとんど筋肉と呼べるものはなく、同時に肉もあまりないやや痩せた小柄な姿。  容姿も、どちらかといえば童顔とは言われるがそれを気にしてなるべくキツい表情をするよう心がけていたので、きっとこいつとは正反対な状態だろう。  「あ……え、ええと……その、お前、俺を、知ってるのか?」 「知ってるも何も……信良木 文(しらぎ あや)先輩じゃないですか」  響は怪訝な顔をしたまま正確に、そしてどこか愛おしそうな響きを込めて俺の名前を答える。  そのまま不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。 「文さん……一体どうしたんですか?」 「お……っ、俺は、知らないっ」 「え?」 「お前のことも……俺のことも……何で、俺はここにいるんだ? そもそも、ここは何処なんだ!?」 「文さん?」 「や、めろ!」  必死になって疑問を口にする俺の様子を見て、響もようやく違和感に気付いたように俺の肩を掴む。  が、俺は即座にその手を振り払った。  触れられた瞬間、先程の感覚を思い出したから。  自分が自分でなくなりそうな、身体がバラバラになるような快感。  同時に、素に戻った今となってはそれがどんなに恐ろしいものかも理解していた。  もう一度、あんな状態になってしまったら…… 「文さん……」  俺に拒絶された響は酷く驚いた顔をした。  その顔に張り付いた衝撃に思わず心が揺れるが、それでも俺は警戒を解かぬままじっと彼を含めた周囲の状況を確認する。  ここは、何処かの寝室のようだった  そして相手に……響に悪意はないようだ。  奴が俺を拉致したことにより現在の状況に至っているという仮説も一時頭を掠めた。  むしろ、それは可能性としては高いと思っていた。  だけど、相手のこの反応……そして、行為の最中の言動。  そこに見えたのは愛情であり……いや、愛情が暴走した結果そうなることも考えられなくもないが、俺の目の前にいる響はあまりにも自然体だった。  まるで、俺がここにいるのが当然だとでもいうように。  ……そもそも、俺がこいつに愛情を向けられるような覚えはない。  なのに、響は俺のことを心底心配そうに見つめている。  多分、奴にとっては突然奇妙なことを言いだした俺のことを。  おかしいとは思っているが、それよりも俺への心配が勝っている様子だった。  まずは、俺の様子を確認しようというように。  ――なら、ここで感情的になるのは悪手だ。  あまりの状況に取り乱したり目の前の相手を糾弾しようとする気持ちをぐっと抑え込む。  論理的に考えて、可能性はふたつ。  俺がおかしいのか、相手がおかしいのか。  いずれにしても、今の状況が何なのか情報を引き出さなくてはいけない。 「……ええと、悪かった。取り乱して」  凍りついたように固まったまま俺を凝視している響に言葉をかける。  それだけでほっとしたように相手の力が抜けていくのが分かった。 「……けど、俺がお前を知らないのは本当だ」 「えっ?」  相手が俺の言葉を受け入れてくれそうなのを見計らって、本題を切り出した。 「俺がなんでここにいるのか……お前とその、こんなことになってるのか……俺には、全く理解できないんだ」 「え……ええっ」  なるべく落ち着いて響にこちらの情報を渡した、はずだった。  だが、響は思いの外に動揺してしまったようだ。 「どういうことですか!? 理解できないって……」 「つまりその……俺はさ、道を歩いてたんだ」 「え?」 「ついさっきまで、昼間の道路を歩いていたんだ。桜の花が咲いてて。なのに次の瞬間、気が付いたらここにいて……」  そこで言葉を切って窓の外を確認する。  閉ざされたカーテンの外は暗い。  どうやら、本当に夜のようだ。 「いつの間にか夜になってるし――」  ベッドの周りを見てみれば、サイドテーブルの上に時計があった。  1時30分を指している。  これは、昼間ではなく夜の1時ということなんだろう。  まずいな……  不自然な時間の経過を確認し、さすがに自分の認識が揺らいでくる。  今までは、俺の周囲がおかしいものだとばかり思っていた。  だけど、おかしいのはもしかしたら俺なのか? 「……記憶が、飛んでるとか……」 「あ、文さん!」  ぽつりと呟いた言葉に響が過剰に反応した。 「大丈夫ですか! もしかしてあの時、頭を打ったんじゃ……」 「あの時? 頭?」  事態が解決しそうなキーワードを耳にして俺は思わず反応する。 「それっていつ? 俺、頭打ったのか?」 「医者に診てもらった時は、大丈夫だって言われてましたが……もしかすると」 「医者? 行ったのか? 俺が? なんで?」  ますます記憶にない単語に興奮して響の顔を真正面から覗き込む。  その口から飛び出たのは、予想外の言葉だった。 「覚えてないんですか? 3ヶ月前……3月の終わりに、文さんが俺を助けてくれた時のことですよ!」 「え……」  助けた?  俺が、こいつを?  いや、そもそも3ヶ月前っていうと、12月じゃないのか?  ますます混乱する頭を振ると、大きく深呼吸した。  とにかく、とっかかりは見えた。  あとは、いちから状況を整理していくだけだ。  響を見ると、ひたすら心配そうに俺を見つめている。 「……悪い、全く記憶にない。最初から話してもらえないか? けど、その前に……」  小さく息を吐くと、俺は全身を眺める。 「シャワー浴びて……なんか服、貸してもらえないか……?」  道筋が見えてきた以上、一刻も早く先程の情事で大変なことになっている俺の身体をなんとかしたかった。  風呂場から出ると、パジャマが用意されてあった。  身に着けてみると、俺にぴったり合っていて……しかもそれは、新品ではなかった。  先程、否応なしに見てしまった響の身体を思い浮かべてみる。  貧相な俺の身体に比べると、響はかなりいい体格をしていた。  それなのに、俺の体格にあったパジャマがあるということは……  パジャマを身に付けながら、胸の奥から湧き上がる不安を飲み込んだ。  リビングに行ってみると、コーヒーにミルクを入れたのを用意して、響が待っていてくれた。  響が持っているのは紅茶。  ということは、わざわざ用意してくれたんだろうか。  あくまでも優雅な仕草で、響は俺にミルクコーヒーを差し出す。 「文さんはブラック派でしたが、もう遅いのでミルクを入れておきますね」  完璧に俺の好みまで把握していやがる。  これは、俺がうすうす感じている状況だからなのか、それともこいつがただのストーカーなのか…… 「……それじゃ、その、3ヶ月前のことってヤツを話してもらえないか? あ、その前に何かメモする物借してもらえるか?」 「では文さんのノートをどうぞ」 「……何だよ、それ……」  またも聞き覚えのない単語に頭を抱えながら差し出されたノートを開いてみれば、どこかで見覚えのある文字が並んでいる。  けれどそこに書きこまれた単語は全て見知らぬもので。 「……なんか、気持ち悪ぃ」  俺はノートを裏返して、真っ白いページを開く。  いや、そこはよく見ると、1、2ページ破れた跡があるようだった。  不審な点は多いが、これはこれで、俺の失った記憶の助けになるものに違いない。  だけど、いきなり出てきたこのノートを調べるだけの心の準備は持ち合わせてはいなかった。  それに、今はまず一番状況を知っているらしいこいつの話を聞くべきだ。 「――頼む」 「はい……といっても、どこから?」 「そうだな……とりあえず必要なのは俺の情報だから……俺とお前の接点から頼む」 「では、俺が入団した時の?」 「いや、それは覚えてる」  元々、俺たちは大学の演劇サークルから発展した劇団……そこそこ大規模で、最近スポンサーもついて人気が出てきたそうだけど……そこの、先輩後輩の関係だった。  しかしこいつが入るのとほぼ同時に俺は辞めたから、ほとんど接点はないはず。 「さっき言った、3ヶ月前の話……そっから頼む」 「はい、では……」  そして響が語り出したのは、あまりにも予想外の3ヶ月間の出来事だった。 「あれは3ヶ月前の3月20日、ちょうど昼ごろのことでした」  スマホの履歴を確認しながら響が語りだす。  その声はけして大きくはないものの、よく通ってやたら聞きやすい。  目立つ顔の造形にこの声。  こいつの舞台は見たことないけれど、きっと、やたら映えるんだろうな……ふと、そんなことを考える。  いや……それよりも、気になることがあった。  こいつ、3ヶ月前の3月20日って言ってなかったか?  3月20日っていえば、俺の実感ではついさっきだった筈。 「え……じゃあ、今は……今って、何日なんだ?」 「6月24、いえ25日ですが?」 「嘘だ……」 「どうぞ、確認してください」  響は自分のスマホを差し出した。  そこにははっきり6月25日という文字が浮かんでいる。 「あ、じゃあ、俺のスマホ。どこに……」 「これですよ」  響は即座に俺のスマホを渡してくれた。  電源をつければ、やはり浮かび上がるのは6月25日の文字。 「マジか……」  ようやく慣れ親しんだ自分の持ち物を確認し、だけどその持ち物にさえ裏切られ……いや、事実を突きつけられ、俺はがくりと肩を落とす。  間違いない。  どうやら、信じられないことだけど……俺は、いや、俺の記憶は3ヶ月前から飛んでしまっているらしい。 「大丈夫ですか?」  俺の様子を見て響が気遣わしげに声をかける。 「……ああ」  なんとかそう返事をすると響は安心したように息をついた。  正直、ちっとも大丈夫じゃない。  だけどここで落ち込んでいては、先に進まない。  得られるだけの情報を得てから、落ち込むなり先のことを考えるなり、次のアクションを起こすことにしよう。 「それより、続きを頼む」  そう考えて、響を促した。 「はい。それで、その日……俺は、文さんに命を助けられたんです」 「え……っ!? あ、いや、続けて」  これまた意外な展開に思わず声をあげるが、それよりも話の続きを確認したくてなんとか息を飲み込んだ。 「その、道路を渡ろうとして……そしたら、誰かに抱き着かれたんです。思わずバランスを崩して転んだら、目の前を信号無視のトラックが通り過ぎて……」 「それが、俺?」 「はい。驚いてる俺に文さんは血相を変えて無事か? 良かった……って言って、無傷だと分かると心底ほっとしたような顔をしてくれて……」 「……なんでだよ……」  俺の様子を演技交じりで語る響を、呆然と眺めていた。  やっと分かった3ヶ月前の……いや、俺の認識している直後の俺の、行動。  だけど、その行動が、俺には信じられなかった。  だって、こいつは俺にとってただの後輩……いや、ほとんど接点がないのだから、それ以下の存在だったかもしれない。  そんな俺がこいつを助けるなんて。  いや目の前で事故に遭いそうな奴がいたら助けるかもしれない。  だけど、血相を変えて安否を確認するとは思えない。 「文さん?」 「あ、いや……続きを頼む」 「俺は無事だったんですが、文さんの頭からは血が出ていて……それで俺、病院に行くのを勧めたんです。でも文さんはいいって言って」  ああ、それは何でだか分かる。  当時のことを思い出したのか心配そうに語る響を見ながら、その部分だけは僅かに納得する。 「なんでも文さん、保険証がないとかお金がないとかで……」 「ああ、きっと俺ならそう言うだろうな」 「で、それは俺が出すからって強引に病院に連れて行ったんです」 「で、結果は?」 「全く問題なし、一応経過を見る……ってことでした」 「うーん……」  3ヶ月前に、俺は頭を打った。  その結果、今まで記憶が飛んだ?  そう考えると、話は繋がらないこともない。  それでもまだ納得いかない部分はある。  まずは情報の確認をと、俺は黙って話の続きを聞くことにした。 「病院から帰った後、実家に連絡を取ろうとしたら文さんはしなくてもいいって言って……」 「ああ、それは理解できる。大きな事故ってわけでもないなら余計な連絡入れる必要ないなって思ったんだろう」 「……はい、あの時の文さんも、同じことを言っていました」  俺の返事にどこかほっとしたように響は頷く。 「それから、心配だから経過を見る間は俺、文さんの家に泊まりましょうかって聞いたんです。突然倒れたりしたらいけませんし……」  ああ、なんとなく展開が見えてきた。  続く響の話は、俺の予想通りだった。 「そしたら先輩、家がないって言うんです。寮から出て、この先決めてないって……だったら、しばらくの間俺の家に居ませんか? ってお誘いしたんです。その……経過の観察のためと、助けてくれたお礼に……」 「……なるほど」  予想通りの展開に大きく頷く。  俺としちゃ、渡りに船だったんだろう。  話の流れにも不自然なところはない。  あとは、もうひとつの大きな疑問についてだけ…… 「それで……」  話に耳を傾ける俺の前で、響は僅かに言い淀む。 「……」  俺は無言のまま響を見つめることで話を促すと、響は僅かに照れた様子で話を続けた。 「それから、俺たち……俺と文さんは、その、恋人になったんです」 「いやちょっと待てよ!」  肝心な部分のざっくりとした説明に思わず大声で突っ込んだ。 「端折りすぎだろ! っていうか展開が急すぎる! なんで、何がどうなって、俺たちが恋人になったってんだ!」 「ええと、それは……」  響は何と説明すればいいのだろうと言う顔をして考えを巡らせている。  けれども俺はといえば、そんな響の様子を確認している余裕もなかった。  あまりにも展開が急すぎる、とは言った。  言ったものの、その結論はうすうす予測できたものだった。  俺の好みの飲み物。  俺にぴったりの新品でないパジャマ。  それに、覚醒した当初のあの……響との行為。  全てが、響の言葉を証明している。  けれども、だからといって納得できる話ではない。 「だいたい男同士だし、俺そんな趣味なかったし、なんで俺たちが恋人になってるんだよ」 「それは……その」  言いよどんでいた響はほんの少し顔を赤らめる。 「……文さんから告白していただけたのですが」 「は、マジ!?」  何やってんだよ3ヶ月前の俺!  今更ながらの驚愕の事実を響から聞いて、改めて愕然とする。  いや、待て。  こいつの言ったことが100%真実と決まったわけじゃない。  あくまでもこいつソースのいち情報として取り扱わなくては。 「悪いけど、そこら辺もっと細かく話を聞かせてもらえないか?」 「はい。赤面して俺が好きだと告げた文さんはなんと言うか非常に可愛らしく、初々しくて……」 「そこじゃねえ!」  3ヶ月前の自分に対する目の前の相手の嬉しそうな惚気に軽く頭痛を覚えながら、響を制する。 「その、告白に至るまでの関係性の推移みたいなものをだな……」 「それは構いませんが……」  言葉を濁した響はそこでちらりと時計を見る。  もう夜の2時を回っていた。  響は時間を確認すると、少しの間躊躇してから申し訳なさげに切り出した。 「まだ話は続きますし、一旦切り上げて続きは明日にしてもよろしいでしょうか? 明日、時間が出来次第いくらでも協力させていただきます」 「うーん……」  響の言葉に少しだけ考える。  たしかに遅いといえば遅い時間だが、俺としては別にいつも余裕で起きている時間だ。  それに、もし響の話が創作だとしたら……時間を与えることで矛盾を潰されてしまうんじゃないだろうか。  警戒している俺に、響は頭を下げながら語る。 「文さんが大変な状況の時に、本当に申し訳ありません。ですが、明日は大事な用事があるんです。それに……文さんも具合が悪いようでしたら休憩を取った方がいい」  その様子はあまりにも真剣で、頷かざるを得なかった。 「……分かった。悪かったな、遅くまで付き合わせて」 「いえ。最初に誘ったのは俺ですから」 「へ……」 「……あっ」  最初、その言葉の意味は分からなかった。  だが響のしまったという顔を見てすぐ理解できた。  今夜の、あの行為。  あれを誘ったのはこいつだという意味らしい。 「……っ」  思い出した瞬間、身体がぞわりと熱くなった。  目の前の響と繋がった快感。  夢中になって流された感覚がまざまざと蘇り、同時に恐怖にも似た感情が湧きあがる。  もし再び、あんなことになってしまったら……俺は、また抵抗できないんじゃないだろうか。 「……言っとくが、俺はお前の恋人になった覚えはない」 「……」  思わず告げた俺の言葉に、響の眉が下がる。  ただでさえ下がり気味の眼尻がより下がって、日頃の王子然とした様子からはかけ離れた悲しそうな……情けなさそうな顔になった。  その様子に何故かずきりと胸が痛んだが、これだけは言っておかないといけない。 「悪いが今の俺は、お前のことはなんとも思っちゃいないんだ。だから……今後は、その、そういった行為の相手はできない、から……」  その言葉は、どこか口にするにはひっかかるものだった。  それが何故なのかは分からない。  あるいは、俺の言葉に次第に表情を曇らせる響のせいなのだろうか。  「……そうですね。それは、承知しています」  なんとか言葉にしたもののあからさまにしょげた様子で響は部屋へと去って行く。  しかしすぐに布団を持って戻ってきた。 「俺はここで寝ます。布団はもう1組ありますから、文さんは俺の部屋で眠ってください」 「いや、世話になってる俺がそんな気を使ってもらうわけには……」 「でも、以前はそうだったんですよ。文さんは怪我してるかもしれないから……それに今も、もしかしたら頭を打って調子が悪いのかもしれません。だったらベッドでゆっくり休んでいただきたいと思います」  ソファの上に上手い具合に布団を敷くと、響は俺を自室……先程まで、俺たちがいた部屋へと押しやった。 「いや、けど……」 「何なら俺がベッドに運びましょうか? それとも……」  やたら紳士的な言葉の最後に、急に誘うような甘さが混ざった。  響は俺の手を取ると、自身の唇に触れる寸前まで近づけた。 「……ここで一緒に寝ます?」 「……いや! わ、分かった」  俺は慌てて響の手を振りほどくと、ついさっき響が出てきた……そして、俺が意識を取り戻したベッドのある部屋の方を見る。 「……冗談ですよ」  焦る俺を見て響はくすりと笑うと、俺から離れソファーの上にごろりと寝転がった。 「おやすみなさい、文さん」 「……」  小さく響くその声を背中に聴きながら、俺は寝室へと向かった。  ――響の部屋は奇妙な静寂に包まれていた。  完全な無音とは違う。  どこかで音楽でも流れているような、そんな穏やかな静けさだった。  そして、ベッド。  つい先程まで、俺と響が繋がり合っていた場所。 「……っ」  ものすごく、落ち着かない。  横になってみるとその時の熱の残滓を感じ、ふわりと最中の香りが鼻に届く。  このベッドの上で俺は快楽に堕ち響が与える快感に溺れ、ただ夢中で腰を振っていた。  嬌声をあげながら掴んだシーツが、すぐ身体の下にある。 「……眠れるかっ!」  がばりと起き上がると、ベッドから立ち上がる。  まだソファーで寝た方がマシじゃないか。 「今からでも交換を……いや」  リビング繋がる扉を開けようとするが、その手を止める。  明日、大事な用事があると言っていた響を今更起こすわけにはいかない。  それに……なんとなく、眠っているあいつの側に近づくのは身の危険を感じてしまう。  こうなったら、仕方ない。  諦めて、俺は部屋の明かりをつけてベッドに腰掛ける。  どうせ眠れないなら、今の俺の持っている情報をまとめるか…… 「そうだ!」  俺はポケットに入れてあった、先程響から渡された自分のスマホを取り出した。  3ヶ月前から変わらない、俺の唯一の財産。  とりあえず、こいつだけは無事で良かった……  急いで中身の確認してみようとする。  が。 「うそだろ……」  俺の指は画面の上を滑る。  徒に画面の上を滑るだけ。  Password Error  画面には無情にもその文字が光っていた。  ロック画面を開こうとしたが、パスワードが、違っている。  旧式なので顔認証も指紋認証もなしのやつだ。  メールもネットも、肝心な情報にアクセスできない。 「勘弁してくれよ、俺……」  情けない話だが、俺は今までパスワードをまともに設定したことがなかった。  ごくごく基本のワードを組み合わせたもの程度。  だから、今エラーが出ているということは……3ヶ月の間に俺が変更した可能性が高い。  そして3か月間の記憶がない俺は、それを解除する術を持たなかった。 「いや、対処法を検索すれば……って、それが無理なんだよ!」  ふと思いついてはいちいち絶望する。  いずれにしても、今俺が動けることはないようだ。 「……最悪だ」  スマホを握り締めたまま、俺はその場に座り込む。  唯一の、財産。  だがそれも鍵が無ければ開けることはできない。 「ああ、大丈夫か……いや駄目だ、そうだ、締切! ああ……」  そのまま忘れていた大事なことをずるずると思いだし、その場に悶えるようにして転がった。  スマホは、財産。  それは比喩でもなければスマホ単体としての意味だけじゃなかった。  大学を卒業し、劇団も辞め、院への進学も就職もしなかった俺は、世間的に見れば何者でもなかった。  けれども、本当に何者でもないわけじゃない。  俺は、ライターをやっていた。  といっても劇団からの縁で仕事を請け負って、配信サイトの文章を書く程度の下っ端だけれども。  それでも自分の特技で稼いでいるという満足感は、何者にも代えがたいものだった。  これからどんどん実績を得て行こうと思っていた矢先、住処がなくなった。  それでも、だからこそ今後仕事量を増やしていかなくては……  そう、思っていたのだが。 「繋がらなけりゃ、意味ねぇよ……」  スマホを持ったまま、呻くように呟く。  文章を書いていたのは、このスマホだった。  メールで受注し、文章アプリで原稿を作成、保存しまとめたものをメールで送る。  パソコンを持っていなかった俺は、この方法で仕事をこなしていた。  3ヶ月以上前……といっても俺にとってはつい先程の仕事の状況を思い出してみる。  たしか、急ぎの仕事はなかった筈。  けれども3ヶ月も間が空くとなると、話は別だ。  俺は仕事を受けていたんだろうか。  そして、締切は大丈夫なんだろうか……?  下っ端のライターなんて、代わりはいくらでもいる。  だが俺にとってはやっと手に入れた大事な仕事だ。  それを疎かにしてしまったら、もう次の仕事は期待できないだろう。 「……頼むよ、俺……」  今となっては全く期待できない3か月間の自分に祈る。  祈りながら、ベッドに横になった。  頼む……無事であってくれ。  そう、仕事も大事だが、文章アプリ内に保存してあるデータもまた何にも代えがたい大切なものだった。  俺が、書いた文章。  仕事で、趣味で、今まで書き溜めた文章がそこには保存してあった。  パスワードが変わって開けなくなったら、それは一体どうなってしまうんだろう。  何らかの救出手段が見つかればいいんだが……  どの道、今はどうすることもできない。  祈ることくらいしか。  あとは……考えること。  響……王子と呼ばれていた後輩の姿を思い出してみる。  確かに、顔は男の俺が見ても非の打ちどころのなく整っていて、しかも身のこなしも丁寧で好感が持てる奴だったかもしれない。  今日話してみて、その印象は更に強くなった。  心底俺のことを気遣って、俺の心配を先回りしてでも解消しようと気を配ってくれているのがよく分かる。  いや、それは……あいつと俺が恋人同士だった……あいつが俺に好意を持っているからこそのものなんだろうか。  好意……  その、理解しがたい感情を言葉にした途端ふと耳にあいつの声が蘇る。 (文さん……) (俺も、もう……) 「……っ!」  それと同時にあいつとの激しいベッドシーンを思い出し、慌てて頭を振る。  けれども俺が座っているのはそのベッドの上。  嫌でもその時の記憶は強烈に蘇り、俺の全身の熱を昂らせる。 「……なんだよ、これ……っ」  苦しくなる息をどうにかしたいと、自分の手で身体を抱き締めてみた。  足りない。  これじゃ、足りない。 「……いや、何がだよ……」  必死で誤魔化そうとするが、無駄だった。 (もっと強く抱かれ、身体のあちこちを刺激され、そして、もっと……いや、そんな馬鹿ななこと考えるわけないのに!)  響に抱かれた時のことを思い出しただけで、俺の身体は猛烈にあいつを……響を欲しがっていた。 「……嘘、だろ……」  今まで、こんなことなかった。  男に抱かれて、しかもそれを思い出して欲しくなるなんて。  そう、今までの自分にはありえない反応。  だけど、今の俺の身体は違うらしい。 「……そうだ、冷静に……論理的に考えるんだ……」  熱さで呆けそうになる頭の中で、必死でピースを組み立てる。  この身体はやはり、3ヶ月前……俺の実感にあるついさっきの俺じゃない。  3ヶ月の間に響と付き合って、何度も身体を許し合った結果の身体なんだ。  だけど、精神は今の俺のまま。  だからこんなに混乱するんだろう。 「そうだ……やっぱり、今の俺とこの俺とは、違う……」  導き出された結論のひとつに僅かに満足しつつ、それでも治まらない身体を無理矢理抑え込むべく自身の腕に噛み付いた。 「……く……っ」  まだ、推測は終わったわけじゃない。  記憶喪失だけでは説明のつかないことが多すぎる。  そう……響が実はストーカーで、俺を拉致して都合のいい事実を全て揃えたって可能性だってあるかもしれない。  あいつのことを全面的に信じていいわけじゃない。  だから、あいつなんかで興奮するなんて……  ベッドは相変わらず先程の情事の香りに包まれ決して穏やかに休める場所ではなかった。  その香りの中、身もだえながら……それでもなんとか俺は、意識を鎮めることに成功しつつあった。  明日、もっと色々な情報を探し出さなければいけない。  明日こそ、きっと……  そう決意しながらゆっくりと眠りについていく。  その明日が、とんでもない日になるなんて今は思いもよらないまま――

ともだちにシェアしよう!