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第3話 6月25日 7:00 「初日」

 きっと、ベッドに染みついた匂いのせいに違いなかった。  世界中が全て靄に包まれたような真っ白な世界に、俺がいた。  いや、俺たちがいた。  相手が誰なのかも判別できないほどの靄の中、たゆたうように絡み合っていた。 「……んっ」  唇が首筋を這うのを感じた。  耳を嬲られ、髪に口付けされる。  両手を押さえつけられているが、俺は抵抗する様子もない。  むしろ、積極的にそれを受け入れていた。 「はぁ……んっ」  相手はそれに気付いているのか、決して性急には動かない。  むしろじらすようにゆっくりと俺を侵略していく。  愛撫が、首から胸へと降りていく。  執拗なほど丁寧に、胸全体を手を唇を使って昂らせていく。  肝心の、胸の一番敏感な部分を避けたまま、これから起きることを盛り上げるように周囲からゆっくりその箇所へと近づいていく。 「ふ、ぁ……」  一瞬の、触れたかどうかも分からないほどの接触。  なのに俺は酷くそれに反応し、身体全体を揺らす。  もっと、強く。  もっと、激しく愛して欲しいと。  その懇願を受け取ったのか、相手の顔がゆっくりと降りてくる。  胸の、敏感な突起へ。  最初に触れたのは、息だった。 「あ……っ!」  開いた唇から洩れる熱い息。  それだけで、昂りを抑えることができず俺の口から声が漏れた。  けれど次の瞬間、その声は悲鳴に近いものへと変貌する。 「あ……んっ、んんんっ!」  俺の胸に、唇が降りた。  突起を咥え、舌を使う。 「ひあっ、あっ、やあっ!」  転がし、吸い上げ、噛みつき。  激しい、既に愛撫と言うより蹂躙と呼んだ方が適切なほどの刺激が一ヶ所に与えられていく。 「ああっ、あああっ! もっ、もう……っ」  我慢することなく上げ続けていた声は次第に枯れていき、僅かな息だけで懇願する。 「もう……」  駄目、じゃない。  我慢、できない。  もっと、続きを。  息つく間もない愛撫を与えられ、それでも俺は更なる快楽を欲していた。  そして、相手は俺の希望通りに動く。  いつの間にからだらしなく開かれていた俺の両足の間に、相手の身体が入る。 「は、あ……っ」  完全に開いた身体に、相手の熱があてがわれる。 (少し、乱暴になるかもしれません――)  そんな声が聞こえたような気がするが、定かではない。  けれどもその声を肯定するように、俺はますます昂っていく。 「あ、ぁ、あぁああああっ!」  上半身は優しく愛撫されたまま、下半身が蹂躙されていく。  その全てを、俺は悦んで受け入れていた。 「はっ、あっ、ああっ!」  抵抗は、なかった。  疑念もない。  ただ目の前の相手を信じ、腕を絡ませ腰を振る。 「あ……っ、んっ、い、いいっ、そこっ!」  快楽に流されたわけではなく、積極的に自分から求め、感じていた。 「は……んっ、も、もっと……っ!」  声が漏れるのも構わずに。  もっと、相手が欲しい。  何度も、何度でも…… (……さん) 「ん……あっ」 「……文さん?」 「あ……えっ?」  悶えるように淫靡な世界に溺れる中、誰かの声を聴いたような気がして目を開けた。  そしてそこに、整った顔が心配そうに俺を覗き込んでいるのを見つけ酷く動揺する。 「え……っ、え? ひ、びき……?」  一瞬、夢の続きかと混乱する。  快楽の残滓は俺の全身に残っていたから。 (いや、俺は、こいつと昨日……!) 「あ……っ!」  だが次の瞬間、昨日の夜のことを思い出しはっと警戒するように身を竦める。 「……文さん」  そんな俺を見て、響の瞳が落胆の色に染まっていく。 「……一晩寝れば思い出すんじゃないかと思っていたのですが……その様子では違うようですね」 「あ……」  けれどその反応を確認し、俺は冷静さと同時に脳内にあった情報を取り戻していた。  昨日……昨夜のことを。  俺は、こいつと……  改めて響を見れば、どこか戸惑ったたような表情で俺から目を逸らす。  その顔が僅かに赤くなっているのが見える。 「え……?」  俺は自身を確認し、はっと身を固くする。  俺は、酷く寝乱れた格好をしていた。  パジャマのボタンは、全開で。 「え、おい……っ!」 「いえ、俺は何もしていませんから!」  咄嗟に身を竦め目の前の相手を睨みつけると、響は慌てたように首を振る。  その片手にはフライ返しが握られていて、たしかに俺に何かした様子はない。 「そ、そうか……悪ぃ、なんか夢見てたみたいだ」  なんとか謝ると、そそくさとボタンをはめた。  身体が興奮しているのも分かったかもしれないが、それは生理現象として理解してもらえるだろう。  というか、スルーしてくれ。  それよりも俺は……ついさっきまで、言い訳のできないような夢を見ていたんじゃないだろうか?  誰か……男に積極的に抱かれ悦んでいる夢。  おまけに、その相手は…… 「あ、な、何か用か?」  その間中も俺をじっと見つめる視線に耐えきれず、俺はパジャマのボタンを止めながら響に尋ねる。 「ああ、そうでした。朝食の準備ができたので、起こしに来たんです」 「え……」  響の言葉に時計を見てみれば朝の7時。 「早い……いや、いいよ、そんな……」  いつもは10時過ぎに起きる俺には7時なんてまだ夜だ。  けれどもわざわざ作ってもらった食事に文句なんて言える筈もない。  思わず出かかった苦情を飲み込むと、慌てて起き上がろうとする。 「すみません、お休みのところ……」 「いや、悪かったな。起こしてもらった上に朝食まで作ってもらって……」  そうだ、たしかこいつは今日大事な用事があると言ってたっけ。  世話になっている以上、負担をかけるわけにはいかない。 「俺も、何か手伝いを……」 「いえ、もう出来てますから」  俺を制して響は部屋の扉を開ける。  途端に、香ばしいパンの香りが広がった。 「着替えも用意してありますが、まずはこちらを」 「ああ……本当に悪いな……」  ダイニングにはテーブルが一つ、椅子は二つあった。  どちらに座ろうか迷っていると、響は丁寧に俺をエスコートする。 「どうぞ」 「あ……あぁ」  勧められた椅子に俺が座ると、響は手早くコーヒーを淹れ、パンとサラダが添えられた目玉焼きとヨーグルトを俺の前に置いた。  そして俺の真正面の椅子に当然のように腰かける。  まあ、椅子は二つしかないから当たり前なんだが……その自然さ、距離感に僅かに困惑する。  そして何よりも。 「……どうかしましたか?」 「いや、別に……」  朝の光の中で見る響は、その所作の優雅さも相まって妙に現実離れした美しさに見えた。  起きたばかりの俺とは違って、既にしっかり整えてある髪がさらりと流れる。  微笑を浮かべた顔は朝の光の中、何の物語かと思うほど輝いている。  劇団内で王子と呼ばれているのも頷けるほど、その呼び名とこいつの容姿は合致していた。 「どうぞ」 「……いただきます」 「いただきます」  俺と調子を合わせるように、響は優雅に両手を合わせた。  そんな王子らしくない所作すら、見惚れるほど決まっている。  ……いや、見惚れてどうする!  呆然とそんなことを考えていた俺は、慌てて思考内容を変更しようとする。  俺はこいつを信用できるのかどうか、まだ見極めていない。  俺と付き合っているという、響のことを。  ……そもそも、なんでこいつは俺と付き合っているんだろう。  こいつはこんなにも綺麗で……なんと言うか、王子なのに。  ……いや、今それを考えていても仕方ない。  俺は首を振ると、目の前の朝食に専念することにした。 「……美味い」  手に取ったパンは柔らかかった。  トーストしていないパンなのに温かく、そしてとびきり香ばしかった。  中に何か練り込んであるのだろうか、ほんのりとパン以外の甘さもある。  それを聞いて王子……もとい、響はほっとしたように微笑んだ。 「前にも文さんはそう言ってくれたんですよ。昨日、たまたま仕込んでおいて良かったです」 「仕込む?」 「ほら、あれで……」  響が指差した先にあったのは、炊飯器に似た家電用品。  それとパンを関連付ければ何なのかすぐに分かった。 「……ってことは、このパン響が作ったのか」 「正確にはホームベーカリーが、ですけどね」  俺の言葉に響は笑う。  そこに、ほんの僅かな寂しさのような感情が含まれているように感じたのは俺の気のせいなんだろうか。 「ちなみにこのヨーグルトも、自家製ですよ。といってもこれも乳酸菌のおかげなんですけどね」  響はジャムの入ったヨーグルトを指差す。 「すごいな……」  日々安い自炊ばかりしている俺は、驚愕と羨望の眼で響を見つめる。  こいつ、ただの王子なだけじゃなく食生活まで完璧王子なのかよ……  食卓の上のパンとヨーグルトまで輝いて見えてきた。  目玉焼きもいい色をして美味しそうに見えて……あれ?  そこで俺は違和感に気付く。  俺の目玉焼きは皿の中央に鎮座している。  しかし響の皿はどこだろう。  テーブルの上を見渡しても見つからない……いや。  響の皿は、絶妙にミルクボトルに隠れて見えなかった。  それが、何故か不自然に感じて…… 「んん?」  思わず、首を傾げてみた。  傾けたことで視界が代わり、響の皿が見える。  ぐちゃりと潰れた片目の目玉焼きが乗った、皿が。 「……あれ?」 「……あっ」  その声で、俺が何に気付いたのか響にも分かってしまったんだろう。 「いえ、これは……卵を割るのに失敗したので……」  潰れた片目を庇うように、言い訳しながら皿を引き寄せる。 「……気を遣わなくてもいいのに……」  目玉焼きを作ることに失敗して、それを隠そうとする響。  そんな彼の完璧じゃない部分を発見し、どこかほっとした気がして息を吐く。  同時に、迷うことなく自分が失敗作を取り、俺に成功作を渡してくれたことを申し訳なくも思う。 「俺、別にそっちでも構わないよ?」 「いえ、崩した責任は自分でとります!」  手を伸ばして皿を取り換えようとすると、響は頑なに自分の皿を守りながら目玉焼きをつつく。  そうこうしているうちに、朝食に思いの外時間を使ってしまったらしい。  皿が空になったタイミングで、響は時計を見て息を飲む。 「あ……! すみません、俺はもうじき行かなければ」  そのまま響は慌てて身支度を始めた。  それをぼんやり眺めていた俺は、響の次の言葉に愕然とする。 「文さんも支度してください」 「俺も? なんで……」 「文さんも、行くからです」 「え? どういうことだ……??」 「――覚えていませんか」  そんな俺を、響は少し悲しそうに見つめる。 「……え?」 「今日は、公演初日なんです」 「え……? って、劇団の?」  響の言葉に息を飲む。 「……そうです」  その口調にどこか悲哀を滲ませながら、響は俺に小さな細長い紙切れを手渡した。 『劇団“響演” 第10回公演――』  そこには、そんな文字が躍っていた。  どうやら入場チケットらしい。  そんな文字列を眺めているうちに、漸く頭が動き始める。  響は劇団では花形の役者だった。  そして今日がその本番初日だってことは……  昨夜のあれこれ、そして目の前の朝食が頭に浮かんだ。 「あ……わ、悪い! そんな大変な時に昨日色々問いただしたり朝食まで作ってもらって!」  昨日、強引に話を打ち止めたのは響にしては珍しいと思っていた。  けれど、こういう事情なら仕方ない。  むしろ付き合ってもらっただけ申し訳ない。 「いえ、文さんが大変な時に申し訳ありません……」  俺が焦っている間に、響は身支度を終えていた。 「開演は1時半からですが俺はもう行かなきゃいけません。文さんは、どうします?」 「どうするって……」 「場所はいつもの小劇場ですから、昼過ぎに出ても大丈夫ですが」 「いや、俺……行かなきゃいけないのか?」  もう俺は劇団を辞めた身。  実際、それから公演を見に行ったことはない。  ……行くことが、できなかった。  だが、響はいつになく強引に宣言する。 「――いけません。文さんは、絶対に来てください」 「……あ、ああ」  その有無を言わさぬ迫力に思わず頷くと、響はほっとしたように力を抜いた。 「では、先に行ってきます。昼食は冷蔵庫にあるものを適当に食べてください。もしくは、机の上の財布から出していただいても構いません。そこに、鍵も入っています」  そのままてきぱきと指示を出す。 「わ、悪いな……」 「いえ。それでは……いってきます」  それだけ言うと、響は俺に体を近づける。 「え……おい!」  そのままごく自然に抱き締められた。  響の顔が接近する。  その流れるような所作に思わずなすがままになっていたが、唇が重なりそうになる寸前はっと気付くと慌ててもがいた。 「止め……止めろって言っただろ!」 「あ……つい、いつもの癖で……」  俺の抵抗に響ははっと気づいたように動きを止め、慌てて身体を離すと深々と頭を下げた。  どうやら、毎朝の儀式だったらしい。 「申し訳ありません!」 「まあ、いいからさ……行ってきなよ」 「すみません……昨日、言われたはずなのに」  思いの外しょんぼりと肩を落とす響が気の毒で、本番に影響するのではないかとふと考え思わずエールを送る。 「その……がんばれよ」 「はい!」  それだけでぱっと笑顔になった響は漸く顔を上る。 「では、行って来ます」 「ああ」  そんな背中を見送ると、俺ははあとため息をつく。 「……どうしたもんか……」  時計を見れば、もう8時。  開演が1時半なら会場は1時。  12時にここを出れば十分だろう。  もし、行くとするならばだけれども…… (無能) 「あ……」  公演のことを、劇団のことを思い出したのが引き金になって、脳内に声が浮かび上がった。  もう二度と聞きたくない、決別の原因になった、あいつの声が。 (理解することが不可能なら、しなくてもいい。だが、やれ) (お前はそんなこと考える必要はない。それは俺の仕事だ。お前はお前の仕事に専念しろ) (どうせ、無理なんだろう?) (逃げるなら逃げればいい。そんな奴は要らない) 「……くそっ」  思い出すだけで全身が冷たくなる声――その、内容。  否定。  真っ直ぐにつきつけられる否定の言葉に直視することすら耐えられず、俺は必死で背を向けようとする。  いや、背を向けた。  俺は劇団を辞めた。  だからもう、関係ない。  思い出すだけ無駄だ……  俺にまとわりついて呪縛のように苛んでいるその言葉の数々は、3か月間の記憶が消えたらしい今になってもしっかり残っていた。  どうせ消えるなら、こっちの記憶が消えてくれればよかったのに……  あれ以来、劇団の稽古はおろか公演だって見に行ったことはない。  響はそんな事情を知っているんだろうか。  あの頃あいつは入団したばかりだからよく知らなかったかもしれない。  だから、俺を誘ったんだ。  けれども…… (絶対に来てください)  真剣な響の様子が少しひっかかった。  俺が、この芝居を見に行かなければいけない理由が何かあるのだろうか。  恋人……だったという、響の姿を見るために?  いや、それにしてはあまりにも真剣な様子だった。  なら、何で…… 「え……?」  ぼんやりと渡されたチケットを見つめていた俺の目に、ふとひっかかる単語が飛び込んできた。 「え……え!?」  はっと身を起こしチケットを凝視する。 「嘘だろ……」  しかしその単語は、朝の響の態度も合わせて考えてみてもどうやら嘘ではないらしい。 「まさか……けど、行かなくちゃ……」  唖然として呟いた俺の手は、その声と同様小さく震えていた。

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