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第5話 6月25日 22:00 取り戻したいと決めたから

 夜の公演を終え、響が帰って来たのは夜の10時近くだった。 「文さん、今帰りました――文さん?」  明かりのついていない真っ暗な部屋を見て、俺が眠っているのかもしれないと声を顰めながらそれでも挨拶をする。  その声には明らかに心配の色が含まれていた。  しかし、電気をつけ部屋の中を確認し、不安は安堵のため息へと変わる。  ソファーに膝を抱えて座っている俺の存在を見つけたから。 「よかった……いや、どうしたんですか? 明かりもつけないで」  もしかしたら、俺がいなくなったのかもしれない。  そんな思いに囚われていたのだろう響は俺がいるのを確認してほっと息をつくが、次の瞬間俺の様子が変なことに気付いて再び心配そうに詰め寄った。  だが俺はそれをはぐらかすようにして、響に聞き返す。 「ああ……お疲れ。……飯は?」 「いえ、まだ。差し入れのお菓子を少しいただきましたが……」 「カレー、作っといた」 「え……ありがとうございます!」  響は俺の言葉にぱっと笑顔になる。  まあ、響は公演で疲れてるんだ。  家で世話になってる俺が何もしない訳にはいかないだろう。 「……っつても家の中にある物だけで作ったから、肉なしな」  財布は預かっていたが、さすがに使う気にはならなかった。  野菜と鍋、そしてルーはかろうじてある場所が分かったので、なんとか作ることが出来たのだ。 「いえ、嬉しいです。甘い物ばかりだったのでちょうど辛いものが食べたかったところでした」 「そう思って」  ……実のところは、カレーくらいしか作れなかったんだけれども。  そして、作り終ったところでひとつ大きな問題に気付いてしまったんだ。  それを正直に響に告白する。 「で……更に、悪い。米がどこにあるか分かんなかった……」  つまりご飯なしの肉なしカレー。 「……ふふっ」  申し訳なさそうに告白する俺を見て、響は何故か嬉しそうに笑う。 「もしかして、文さんも夕食を食べてないんですか?」 「……」  沈黙でそれに答える。  実を言うと、色々頭がいっぱいで夕食どころか昼食も食べてはいなかったんだけど。  それに気づいたのか分からないが、響は急いで冷蔵庫を開ける。 「それじゃあ……パンはあるからカレーとチーズを乗せて焼きましょう」 「ああ」  響は手早くパンを切り分けると、俺が手を出す間もなく二人分のカレーチーズトーストを作り始めた。  やがて、カレーとチーズ、そしてトーストの香ばしい匂いが部屋の中に漂ってきた。 「焼いている間にお茶を淹れますね」 「あ……色々、悪い」  響はさっと俺たちの前にコップを用意する。  俺にはミルク入りコーヒー。  響は紅茶。  昨夜と同じカップが机に並んだ。  それはつまり、昨日できなかった話を再現しようという意志表示で。 「どこから、お話しましょうか?」  改めて響が俺に問いかける。 「……その前に、ちょっといいか?」  昨日の続きを話そうとする響の言葉を止めたのは、俺自身だった。 「……今日の芝居の脚本、あれは本当に……俺が書いたのか?」 「そうです」  改めて確認する俺に、響ははっきりと頷いた。 「文さんがあの脚本を作り上げたのを、俺は側で見ていました。文さんは、芝居のこと……そして俺のことを考えて、書きあげてくれました」 「……だよな」  分かっていた。  今日、家に帰ってから響に渡された俺のものだというノートを読んで、確信した。  響が俺に渡してくれた俺のノートは、今回の脚本のネタ書きでいっぱいになっていた。  間違えようのない、俺の字で。  だけど、それを読めば読む程俺の中の疑問は膨らんでいた。 「俺は……持ってない」 「え?」  やっとのことで、俺は言葉を絞り出した。 「俺は、この脚本、そこに至るまでの発想を……出すことはできないんだ。自覚がある」  それは情けない自分の中身をさらけ出すようで正直かなり抵抗のある行為。  だけど、今の俺をはっきり説明し、俺の意図を明らかにするためには必要なことだった。 「俺には、こんな脚本……書けない」 「いえ、そんな事は……」 「いや、分かるんだ。俺が書いた。時々出る言葉の癖や、それ以前にキャラクターの造形、そういった細部に俺は感じられる。だけど……」  発想、組み立て、何よりも…… 「最終的に出来上がったあの脚本は、今の俺には書けないものだった。何よりあれは、キャストや演出をよく理解した上で任せることができなきゃ、無理だ」  そう。  舞台上で見たこいつの技術。  演出の巧みさ。  それを知った上で任せるという信頼がなければ、絶対に書けないものだった。  今の俺には……それは出来ない。  仮にあれだけの構想を考え付いたとしても、多分きっと全て文章で理解してもらおうと孤軍奮闘するのが目に見えている。 「文さん……」  響の前で俺は素直な気持ちを明らかにする。  情けない、みっともない、だけど、どうしても我慢できない。 「書きたい」  そして見栄や恥をかなぐり捨て、俺は宣言する。 「書きたいんだ、俺もあんな脚本を……文章を。だから、響……」  半日考えて出した結論をいったん置いて、響に質問する。 「お前は、俺のことをどう思ってるんだ?」 「えっ」  突然の言葉に響の息を飲む声が聞こえた。 「こんな俺でも、もしお前が受け入れてくれるなら――」  大切な記憶も、あの脚本を書くだけの力すらない。  そう、響の協力は、不可欠だった。 「俺は、思い出したい。もしかしたら俺が失ったという記憶を、お前のことも含めて、全部……」  今の俺の中にあの脚本がなかったとしても、3ヵ月間の俺の中にはたしかにあの脚本があった。  響の家に残された俺のノートを確認して、その想いは更に強くなる。  3ヶ月前、俺に何らかの変化が起き、あの脚本を書くことができたんだ。  その変化とは、おそらく多分――いや、間違いなく響。  響と会って一緒に暮らし、そして俺は脚本を書いて舞台ができた。  その時の気持ちを少しでも再現できれば、蘇らせることができれば……俺は再び、あんな脚本を書くことができるかもしれない。  何としてでも、俺は取り戻したかった。  俺を、俺の文章を。  俺の、文章――物語。  最初、それはごく普通のことかと思っていた。  幼いころから、世界に物語が見えたのは。  空の上、雲の中に、水の泡の中に、渦巻く風の中にそれはあった。  だから、それを綴りたいと思った。  文字を覚えた小さい頃から何かを書いているというのはごく自然なことで、それは他の人も同じだと思っていた。  そうじゃないのかもしれないとやっと認識し始めたのは、大学受験のための小論文。  クラスメイトが規定の文章を書くのに四苦八苦しているのを見て衝撃を受けた。  水中にいる魚が何故他の動物は水の中で生きられないのかと不思議に思うような感覚だった。  俺にとっての文章は、魚にとっての水と同義――そしてそれは特別な存在。  そんな当然のことを、漸く認識できたのだ。  そんな中たまたま見たのが、学生演劇サークルが母体のこの劇団の芝居だった。  舞台に魅了され、この劇団がオリジナルの脚本を募集しているという話を聞いて思わず応募した。  そう、元々俺は、脚本が書きたくてこの劇団に入ったんだ。  脚本家希望者は数人いて、そこでコンペ……選考が行われ、俺が書いた脚本が選ばれた。  その選考の中心的人物は、あの日辻だったっけ。  ――それは、嬉しくないといえば嘘になる。  いや、正直、認められて天にも昇る心地だった。  自分の文章が評価されたのは、初めてだったから。  ……そうか、最初に俺を評価したのも、最後に突き落したのも、全部日辻だったのか……  今更ながら、苦い想い出が零れ落ちる。  俺の脚本は舞台として上演され、なかなかの評判を博した。  そのまま2度、3度と芝居の脚本を書くようになった。  その縁で、今こうしてライターの仕事を貰えるようになったのだ。  俺は、劇団で脚本を、文章を書いて、そして人に評価されるという味を知った。  やっと、俺が俺でいられる場所を掴んだと思ったんだ――  だけど、それから…… 「愛してます」 「えっ」  とりとめない思考は響唐突な言葉で中断された。  響は微塵も照れることなく、真っ直ぐ目を見ついた。  こちらが直視できなくなるほどの率直さで。 「たとえ文さんが忘れてしまったのだとしても、俺はずっと文さんを愛しています」 「何で……」  そんな響に、思わずするりと口から疑問が零れた。 「なんで、お前が俺なんかを好きになるんだ?」  こんな、容姿、性格ともに明らかな完璧王子がなんで俺なんかを? 「文さん……」  俺の真剣な様子に響はどう答えようか僅かに迷った後、ゆっくり俺を抱き締めた。 「……っ!」 「……すみません、でも、言葉だけでは足りなかったので」  響は俺の耳元で囁く。  その大きな体で、腕で俺を包み込む。  俺に圧迫感を与えないためか、強い力は入れてない。  けれども響の存在は圧倒的に俺の感覚を支配し……そして俺の意識はそれを受け入れていた。  恐怖は、ない。  逆に何故か安心感のような、妙にしっくり来るような感覚が俺を満たす。  それを抵抗も受け入れもしないまま、俺はただ感じ取っていた。 「文さんは……俺が本当に望んでいたものをくれたから……」  俺を満たしたまま、響は言葉を続ける。  その言葉は心地よさとは真逆に、冷たく俺の中に染み込んでいった。  響の望むものが何なのか、俺には分からない。  俺はやっぱり、3ヶ月前の俺とは違う。  それでも―― 「今の俺も、お前を理解したい。それが、あの脚本を書くことに繋がるなら――」 「……可笑しいですね」 「えっ?」  響は俺の耳元で囁いた。  その声の調子に違和感を覚える。  今までの響のものと違い、どこか強張っているような…… 「あ……」  その時、俺を掴んでいる響の腕に力が入った。  僅かに感じる痛みと、それ以上の無言の気迫に思わず息を飲む。 「文さんは記憶を取り戻そうと……俺へ気持ちを向けようと努力してくれると言ってくれた。なのに、少しも嬉しいとは思えないなんて」 「響……」 「今の文さんは脚本のことばかりで、以前のように俺のことを見ていない……」 「あ……」  響の言葉に、すうっと全身の血液が冷えていくような感覚に陥った。  言われるまで気付かなかった自分の無神経さを呪う。  たしかに俺は、この状態になってからずっと自分のことしか考えていなかった。  響のことを疑うばかりで、想い合っていた恋人だという俺が唐突に自分のことを忘れ省みることもないこいつの状態に思いを巡らせる余裕もなかった。  そりゃあ、全く余裕はない状態ではあったんだけれども…… 「……まあ、そういう所も文さんらしいといえばらしいんですけどね」 「あ……あっ」  腕の力はますます強くなる。  その力は一つの方向性を持って俺に向けられ、たたらを踏んだ俺はソファーに倒れ込む。  いや、押し倒される形になる。 「ちょ、響……!」 「文さんに、ひとつ確認したいことがあります」  そんな状況にも関わらず、響の言葉の調子は急に前の丁寧なものに戻っていた。  感情の見えない、いや、その奥に底知れない冷たさを隠しているような。 「な……何だよ」  とても反論のできない響の様子に気圧され、思わず返事をする。  だが、次に響から向けられた言葉は全く予想外のものだった。 「文さんはここ3ヶ月の記憶を失ったということですが――それに気付いた瞬間はいつですか?」 「……え?」  思いもよらなかった質問に、息を飲んだ。 「つまり……“今”のあなたがこの状況を自覚したのは、いつからなのでしょう?」  それは多分、俺とこいつがベッドに入っていた瞬間。  最中のその時だったわけだが……それを響に正直に言うのははばかられた。  響とその、恋人同士の営みの最中に唐突に記憶を失って、そのまま快楽に流されて続きを求めていた……なんて、とても話せる内容じゃない。  なんとか誤魔化そうと、言葉を濁す。 「え、と、それは……気が付いたら……」 「昨日、俺とヤっている最中なんじゃないですか?」 「……っ」  あまりにも率直な、そして完璧に図星をついた響の指摘に絶句する。  それは明確な肯定と同じだった。 「やっぱり、そうなんですね」  響は俺から顔を離す。  それによってはっきりと響の表情が見えた。  すうっと形の良い唇を歪めた、身震いするほど綺麗な、そして淫靡な笑顔が。  普段が上品なだけに、垣間見えたその淫猥さはより一層際立って見えた。 「安心してください」  ちっとも安心できない声色で響は告げる。 「俺も、文さんが元に戻ってほしいと思っています。――そのためには、どんな協力も惜しみません」 「――あ、ああ」  ようやく声を絞り出すようにして、頷いてみせる。  それに満足したように、響は話を続けた。 「それで――記憶を戻すためには、失った時点でやっていた行為をもう一度繰り返すのは有効な手段だと思いませんか?」 「え……あ、いや……!」  響の意図をなんとか理解し、その瞬間電流が流れたような衝撃を受けた。  いや……その前から、体はなんとなく理解はしていたのだが。  記憶を失った時点でやっていた行為を繰り返す。  それが意味するのはひとつしかなかったから。  ぎし……と、ソファがわずかに軋む。  響が俺の方に体重をかけたから。 「何が嫌なんですか?」  こんな時でも、こいつの口調は丁寧なままだ。 「俺と恋人だった時の記憶の無い、今の響さんは――それでも、俺との行為に感じて、あんなにも反応していたじゃないですか?」 「――それはっ!」  なんとか反論しようと口を開けたその顔の真正面に、響の顔があった。  キスされるかと思った次の瞬間それは逸れ、首筋に柔らかい感触が落ちる。  それはゆるりと動くと、唇から熱い舌が這い出した。 「う……あっ」  その感覚に身震いする。  襲われる。  そう理解してはいた。  だけど俺の身体は動けない……いや、動かなかった。  記憶を取り戻すための行為――その説明に、理解したわけじゃない。  むしろ、この行為に身を任せるのは昨日感じたような恐怖――自分が自分でなくなるような感覚に溺れてしまうようで、酷い抵抗があった。  けれども。  いっそ、溺れてしまった方がいいんじゃないか?  心の奥でそう囁く自分がいた。  その先に見えるのは、あの芝居。  今の自分では決して書けない、脚本。  こいつに耽溺し、そのまま溺れてしまった方が俺はあの脚本に近づけるんじゃないだろうか…… 「あ……んっ」  響の歯が首筋を甘噛みする。  それだけで、普段なら出るはずもない情けない声が漏れた。  柔らかい唇が、鋭い歯が、俺の首を刺激する。  ――ああ、くそっ。  いい加減、認めなければいけなかった。  記憶を取り戻すため。  脚本に近づくため。  どれも、嘘じゃない。  けれども今俺が動かないのは――  動きたくないと、思ってしまったから。  俺の身体を侵略しようとする、あの時の快感。  あの感覚をもう一度…… 「ん……」  俺の全身から力が抜けた。  しかしそれと同時に、深い深い溜息が聞こえた。 「はあ……」  そして、俺の全身にかかっている響の圧力が消えた。 「……これくらいにしておきましょうか」 「え……」  その声に唖然として見上げれば、響は先程までとは全く違った……そしていつも通りの表情をしていた。  即ち、いかにも王子のような優雅な微笑を湛えた顔。  そのまま響は強張ったままの俺の顔を優しく撫で、髪をかきあげると身体を起こす。  まだ事態を飲み込めていない俺に、響は微笑してそう告げる。 「いくら記憶を取り戻すためとはいえ、同意の無い文さんを無理矢理押し倒すような無体な事はしませんよ」 「あ……」 (いや……押し倒すまではしたよな)  そんな突っ込みを入れる余裕もなく、俺はただただ響を見つめる。 「けれども、今のではっきりしたこともあります」  響はすうと俺の首筋……ついさっきまで唇が触れていた部分に、指をあてた。 「あ……っ」  それだけで、びくりと体が痙攣したように震える。  その部分は、まるで火傷したように熱く感じられた。  そんな俺を見つめながら、響は淡々と事実確認をするように告げる。 「やっぱり文さんの体は、俺を覚えている……たとえ、記憶を失ってしまったとしても」 「え……」  そしてふっと笑うと首を振って指を離した。 「驚きましたか? ショック療法の一環とでも思ってください」 「あ、ああ……」  小さく笑う響の声を聞きながら、俺は先程とは別の意味で全身の力が抜けて行くのを感じていた。  こいつ、俺のことをからかってたのか?  けど、先程の表情はあまりにも真に迫っていたし…… 「それに……」  困惑している俺の前で、響は完全にソファーから起き上がる。 「明日も、本番がありますしね」  そう言って片目を瞑ってみせた。  その仕草が嫌になるほど似合っていて…… (けどお前、昨日も俺を誘ったって言ってたよな)  なんて二度目の突っ込みも、喉の奥に飲み込むしかなかった。 「さあ、どうぞ」  無言のままの俺に、響はすっと手を差し出す。 「あ、ああ……わっ」  俺が押し倒されたのはソファーなんだから、手なんか借りなくたって余裕で立ち上がれるはず。  けれども思わず差し出された手を取ってしまった。  俺はそのまま響に引かれ、ほとんど力を使うことなく立ち上がり、勢い余ってつんのめりそうになる。  その腰を、響はそっと支えた。 「あ……わ、悪い」 「構いませんよ。いつだってあなたを助けます」 「いや、そうじゃなくて……」  耳元で吐かれた気障な台詞をなんとかスルーして、ようやく俺は自分の言うべき言葉を取り戻す。 「悪かった、のは、俺のお前への態度、で……」  気持ちをなんとか切り替える。  響に押し倒されて流されそうになったり、混乱する前。  今となっては演技なのかどうかも分からない、こいつの悲しげな表情を思い出す。 「俺、自分が置かれてる状況にいっぱいいっぱい、世話になってるお前の気持ちに思い至る余裕も無くて……」 「文さん……」  俺の素直な謝罪に、響は今度こそ驚いたといった様子で目を見開く。  間近で俺の顔を見つめ、しかし俺が見つめ返すとすっと目を逸らす。 「……気にしないでください。それは当然のことですから」  そのまま俺の顔を見ずに返事をする。  その様子がいつもの彼らしくなくて僅かに首を傾げると、そんな俺の気持ちが伝わったのか響は改めて俺を見る。 「そうですね、それよりも……今後はそんな風に、俺の前で無防備な姿を見せないでいただけるとありがたいです」 「へ、無防備って……」  別に今は朝とは違って服は着ているし、どこも着崩れていない。  改めて自身を見遣る俺に、相変わらずの丁寧な口調で響は指摘する。 「いつでも俺に襲われてもいい……そんな、今のあなたが出している雰囲気のことです」 「いや、それは……それはどんな空気感だよ」  響の言葉は無茶苦茶ではあったものの、つい先程の俺の気持ちを完璧に見透かしているようで、俺は慌てて誤魔化そうとする。  けれども、続く響の言葉に俺は言葉を飲み込むしかなかった。 「……もしまたその姿を見たら、次は我慢できるかどうか分かりませんから」 「……っ」  冗談めかしたその言葉は、しかし本気なのだろうというのが良く分かった。  その一瞬の響の瞳の輝きから、笑顔の裏の抑えきれない苦悩……押し殺した欲望が、垣間見えたから。  それでも、それらを全て飲み込んで響は微笑む。  それを見た時、俺の首筋が再びじんと熱くなったような気がした。  ――3ヶ月前の俺がこいつに惚れた理由が、ほんの少し分かったかもしれない。  つい、そんな事を思ってしまった。 「――もうすっかり冷めてしまいましたね」  響が思い出したようにカレートーストを取り出した。  話をしている間に焼き上がり、そして冷めてしまったらしい。 「……別に、そのままでもいいけど」 「俺もです」  二人で冷めたパンを齧った。 「さて、もうこんな時間ですか。どうしましょう?」  食べ終わった響は時計を指差した。  気付けば時計の針は0時を過ぎていた。 「あ……悪い。本番初日で疲れてるだろ」 「俺は大丈夫ですよ。それに明日は準備がない分今日より少しだけ余裕もあります」  思いの外時間を使わせてしまったことに縮こまる俺に、スケジュールを確認しながら響は答える。 「昨日は文さんの質問を途中で打ち切ってしまったので……もし大丈夫でしたら、少しでも文さんにご協力したいのですが」 「あ、あ……悪い」  先程の、俺を押し倒した時のほの暗い様子は微塵もない。  ……本当に、これがこいつの素顔なんだろうか。  ついさっき惚れた理由を感じ取ったばかりのこいつの仕草に、今度はふいに疑念が流れ込む。 「どうしましょう?」 「あ……ああ!」  いや、駄目だ駄目だ。  つい、また自分の推論だけの袋小路に入り込むところだった。  今はそんな個人的な感想よりも、確実な情報が欲しい。  そのためには――保留しよう。  俺は、目の前の響に対する推論を一時棚上げにすることにした。  こいつが俺にとって信じられる奴なのか、そうでないのか。  それを決めるのは、もっと情報を得てからでも遅くない。  「忙しい所悪いけど、昨日の話の詳細を聞かせてもらえないだろうか?」  そしてやっと、俺は響の口から3ヵ月間の俺の状況を確認したのだった。  ――とはいえ、話はとてもシンプルなものだった。  響の説明は随所に惚気があって聞いてられなかったので、自分なりに要約したものをノートにまとめてみた。  3ヶ月前の3月20日、俺は響を助けた――らしい。  その後響の家に世話になることになった俺は、響からある相談を受けた。  それが、劇団の脚本の制作依頼。  今まで……つまり俺が抜けた後脚本を作っていた人物が急に都合がつかなくなり、新たな脚本家が必要になったのだそうだ。  また、日辻がやらかしたんじゃないだろうか――そうは思ったが、話の腰を折ってはいけないと黙っていた。  それで響は以前脚本を制作したことのある俺はどうだろうと、劇団に推薦したらしい。  そして驚くべきことに、劇団はそれにOKを出し、俺も快諾した。  何故だろう……劇団はともかく、俺は一体どうして脚本を作ろうなんて思ったんだろう。  その事実に俺はひたすら首を捻る。  “今”の俺なら絶対に断っている筈だ。  ともあれ、脚本は無事完成した。  その間、舞台について俺と響は色々と言葉を交わし通じ合ったらしくて……そこで、俺は響に告白したそうだ。  ……一体何が通じ合ったっていうんだろう。  全く……全く、分からないことだらけだ。  告白後数日して、俺と響は付き合うことになって。  芝居の練習にも熱が入り、そして6月25日を迎え――  そして、俺は今の俺になった。 「――やっぱり、分かんねぇ」  響の口から全てを説明してもらっても、さっぱり理解できない。  今まで断片的に散らばっていた情報が整理されはっきりした形を作ったのだけれど、完成したそれ自体が大きな謎だった。  表面だけは見えたものの、そこに至る俺の気持ちは完全においてけぼりだった。 「……申し訳ありません」 「いや……いや! 響には本当に世話になった。本当に助かった!」  しゅんと肩を落とす目の前の相手を慌てて労う。  実際、記憶を失って混乱してる俺の前にいたのがこいつでなければ、俺は本当にどうしたらいいのか分からなくなっていたかもしれない。 「ひとまず教えて貰った情報を整理して、俺なりに考えてみるから!」 「はい。もし俺にできることがあれば、何でも言ってください」  俺の言葉に響は顔を上げ微笑んだ。  何でも……あ。  そこで、俺はふとあることに思い至って響に声をかけてみる。 「ああ……無かったらいいんだけど、いいんだけどな。もしあったら貸して欲しいモノがある」 「何でしょう?」 「パソコン、無いか? あとネット環境……」  結局、昨日からネットに繋げられなかった。  ネカフェかスマホショップかで何とかしようと思ったのだけれども、公演を見ていてすっかり忘れてしまった。 「ああ、でしたら文さんも使っていたノートパソコンが奥の部屋にあります」 「おお……!」  響の返事はとても頼もしいものだった。  奥の部屋、そういえば俺はまだ入ったことのないリビングの向こうの部屋に行こうとする響の後ろについて歩く。 「……あ」  けれども、そんな俺に気付いて響はどこか慌てた様子で足を止めた。 「何?」 「……すみません、どこにあるのか探して持ってきますので、少しここで待っていてください」 「……ん」  俺を押し留める響を少し不自然に思ったけれども、ここは大人しくリビングで待つ。  ほどなくして奥の部屋に消えた響は、ノートパソコンを持って戻って来た。 「ネットは共通のWi-Fiがありますから」 「サンキュ」  立ち上げている俺にそう教えてくれる。  俺もまた、パソコンが起動する間に俺のスマホの状況を簡単に説明した。  暗証番号が変えられ、ロックがかかっていること。  おかげでネットもメールもできないし、中に入っている作品にもアクセスできなくなっていること。 「……それは大変ですね」 「以前の俺、何か言ってなかったか?」 「さあ……よくスマホをいじってはいましたが、何をやっていたかは分かりませんでした」  一縷の望みを託して響に確認してみたが、状況は変わらなかった。  そうこうしている間に、パソコンが立ち上がった。  真っ先にアクセスしたのは、俺の文章を入れているテキストアプリだった。  あそこはパソコンにも対応していた筈。  登録名を入れ、次にパスワードを打ち込む。 「……頼むぞ……!」  響と一緒に覗き込んだ画面には…… 「……ああー!」 「……あー」  無情にも、 Password Errorの文字が浮かび上がっていた。 「ここもかよ! 何でだよ!」  画面を殴りつけそうな勢いで、けれども本当に殴ってはいけないので拳を握りしめるだけにして、俺は唸った。  本当に、何をやらかしてくれてるんだ3ヶ月間の俺は。  スマホのパスワードだけならともかく、それ以外のパスワードなんてそうそう変更するもんじゃないだろう。  実際、俺は今まで一度だって変更したことないのに。 「……落ち着いて。たしかこういったパスワードは、申し込めばメールに再送してくれるんじゃないでしょうか」 「あ、そうか……ってメールか……」  響の言葉に挫けそうな気持ちを建て直し、メールサーバーのあるHPを開いてみる。  しかしこの時点で既に嫌な予感はしていた。  メールアドレスとパスワードを打ち込んでみると…… 「……ああ……」 「……あー」  お馴染みの、Password Error。 「……おしまいだ……」 「……ま、まあまあ。たしかこういったパスワードは、サポートセンターに連絡すれば変更できた筈ですから」 「……だよな」  響に諭され、そのままメールのサポートセンターにアクセスする。  そして、最後の絶望を味わうことになった。 『パスワードの変更・確認は、ご本人様確認のため郵送のみで行っております』  そこには、こう書かれていた。  郵送のみ。  けれども、俺は住所が無い。  住所として登録した学生寮は今はもう取り壊されていて、存在しない。 「……詰んだ」 「あ、文さん」 「おしまいだ……」  昨日、俺を取り巻く状況がおかしくなって以来の大きな衝撃に俺は頭の中が真っ白になる。  いや、もしかしたらあの時よりも状況は最悪かもしれない。  3ヵ月間の記憶だけじゃない。  俺は全財産……文章も、仕事も、全てを失ってしまったのだから。 「……最悪だ……」 「だ、大丈夫ですよ! そうだ、今度スマホショップに確認に行ってみましょう」 「……ああ」  ノートパソコンの前でつっぷしたまま絶望する俺を、響が必死で元気づけようとする。 「身分証明書を出せば、何とかしてくれるかもしれません」 「……やっぱ駄目だ……」 「あ……」  そんな俺の様子を見て、響もあることに思い至ったらしい。  そう、俺は保険証を持っていなかった。  保険料を払っていなかったから。  免許も、持っていない。  学生証だって、もう卒業したから無効だろう。 「……もしかしたら、俺という存在を証明するものはこの世に何もないんじゃ……」 「落ち着いてください文さん! ええと、他にも住民票とか……」 「……実家遠いし、あれって第三者でも取れるから身分証明書にならなかったような……」  パスワードと身分証明という壁によって完全に閉ざされてしまった俺という人物の存在確認。  昨日からの衝撃と相俟って、これはかなり堪えた。 「俺って、本当に俺だったっけ……」 「しっかりしてください文さん」  茫然と呟く俺を、響が後ろから抱き締める。  昨日のような激い強さではなく、落ち着かせるような包容力を込めた腕で。  そのまま俺の頭をそっと撫でる。  意外に大きな手だな……  もう思考をどこに向けたらいいのか分からないまま、その感覚につい身を委ねてしまう。  響にされるがままになっている俺の耳に、すうっと彼の言葉が染み込んできた。 「今日の所はもう遅いですから、確認だけして休みましょう。今度、俺も手が空いたらスマホショップに付き合いますから」 「いや……ああ……」  そうしているうちに、緩やかに考えがまとまってくる。  そうだ。  ひとまず、俺が登録しているあらゆるアプリ類の確認をして、後は心当たりのパスワードを打ち込んでいこう。  で、動けるようになったらサポートセンターに電話して……  やるべき事が見えてくると、漸く気持ちが静まってきた。  そして、今も俺の頭の上でやさしく撫で続ける響の手に気付いた。 「あ……わ、悪いな」 「いえ、文さんのお役に立てるのでしたら」  俺の頭にある手に思い至って礼を言ったのだが、響はスマホショップに付き合う約束のことだと受け止めたのか鷹揚に頷く。  その手は止めないまま。 「いや、じゃなくて……」 「全く……さっき無防備な姿を見せないでと言ったばかりなのに……」 「は?」  ぼそりと呟いた響の言葉を聞き返そうとした次の瞬間、俺は解放された。  急に軽くなった頭を、妙に物足りなく感じる。 「……今回はノーカンにしておきますね」 「え、今何て……」  響の言葉の意味を理解できなくて首を傾げていると、響は俺の前に回っていつもの笑顔を向けてくる。 「さあ、もう遅いですからひとまず今日は休みましょう。動くにしても明日以降でないと無理でしょうから」 「あ、ああ……けど困ったな。仕事の連絡だけは取っておかないと……」  ふと、仕事のことを思い出し頭を抱える。 「仕事?」  首を傾げる響に、俺はライターとして活動している仕事先をいくつか挙げてみせる。 「でしたら、サポートセンターかHPに乗っているアドレスに連絡をいれてみては?」 「そうか! あ、いや……俺のメールも使えなくなってるわけで、いきなり見知らぬアドレスから連絡が入ってもなりすましとかかと思われるよなあ……」 「相手の連絡先は全く分からないんでしょうか? 名刺とか……」 「……全く、分からないわけでもないんだけど……」  響の提案に俺は小さく唸る。  連絡先の入手方法。  ひとつだけ、最後の最後の手段があった。 「……日辻に聞けば……」  そう。  俺が仕事をもらったのは、劇団の日辻経由で連絡が来たからだ。  劇団の演出とプロデュースも行っていた日辻は意外に顔が広く、その伝手で各種配信会社から俺に依頼が来たと教えてくれたのだ。 「なら、明日にでも日辻先輩に確認してみましょうか?」 「いや、まだ……」  俺は慌てて響を止める。  確かに、連絡先は欲しい。  けれども積極的に日辻と連絡を取らなければいけないとなると、また別の話だ。 (無能) (要らない)  あいつの言葉が耳に蘇る。  あいつは、俺のことなんか微塵も顧みちゃいなかった。  ただひたすら、舞台のことだけを考えて俺に言葉をぶつけていた。  だから……だから、余計に。  この劇団の中で、俺の脚本は価値がないと言われているようで。  俺には、それだけの力がないと思い知らされているようで。  脚本が突き返される回数が増えるごとに、俺は追い詰められていった。  そして、とうとう俺は言った。  言ってしまった。 (……そんなに俺の脚本が不満なら、自分で書けばいいじゃないか!)  叩き返した脚本を見て、俺の方も見ずに日辻は言う。 (逃げるなら逃げればいい。そんな奴は要らない) (……っ!)  そのまま、俺は劇団を辞めた。  いや……逃げた。  それは、思い出したくもない事実。  自分の実力の無さが……いや、踏みとどまれなかったことが。  日辻の言葉に折れ、批判に向き合うことを止めてしまった自分の情けなさが。  だからその後は劇団に関わっていないし、舞台も見に行っていない。 「……まだ公演中だろ? 忙しい時に邪魔したくないし……」  躊躇する俺を、響は安心してくださいとばかりに後押しする。 「でしたら、折を見て伺ってみます」 「……悪いな。でも、俺も明日は公演を見に行きたいと思ってるから」  日辻は避けたいが、芝居は別だ。  俺の言葉を聞いた響は小さく微笑んだ。 「――そう、ですか。楽しみにしています」  その笑顔がどこか弱々しく感じられたのは、気のせいなのだろうか。 「ああ。……じゃあ、もう休むか」 「はい。文さんも、おやすみなさい  響はいそいそと俺を部屋へと案内する。  パスワードと日辻のことで頭がいっぱいになっていた俺は、素直に部屋に導かれ―― 「しまった!」  そして部屋に入ってから、うっかり大切なことを忘れていたことに気付いてしまった。  今日こそは、この部屋のベッドじゃなく、ソファーで寝かせてもらえるように頼もうと思っていたのに!  そんなわけで、今夜も俺は一人どこか情事の気配の残る響のベッドで悶々としながら眠ることになったのだった。  ――だから、俺は気づいてしまった。  響も完全に寝静まったと思っていた深夜、リビングの明かりがついていることに。

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