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第6話 6月26日 2:00 深夜の酔っ払い
(うう――)
相変わらずベッドから匂い立つ情事の記憶は強烈で、俺は熟睡もできぬまま眠りと覚醒の狭間にいた。
その中でふと襲い掛かってくる感情は……恐怖。
俺が今まで書いてきた文章は、築いたものは、全て消えてなくなってしまったのではないだろうか。
やっと手に入れた、俺が俺として認められた証明の全てが、3ヵ月間の記憶と共にするりと俺の前から消滅してしまった。
再び、俺の前に現れてくれる日は来るんだろうか。
(う――ん)
駄目だ、このままじゃ。
押し寄せてくる不安をなんとか追いやろうと、俺は別のことに思考を向ける。
今のこの状況そのものに、焦点を合わせる。
今日、俺の身の回りについていくつかの新しい事実が判明した。
スマホやメール、アプリのロックとパスワードの変更。
何故、パスワードが全部変わってしまったんだろう。
3ヵ月間の俺に何かあって、それでこんな事をしたんだろうか。
それで、今俺はひどく困った状況に追い込まれている。
一体、どうして――
いや、これは本当に俺の仕業なんだろうか。
例えば、誰か……この場合は響しかいない、か?
俺を自室に連れ込んで、スマホやメールのパスワードをロックして……いや、無理がある。
もし仮にそれが可能だったとしても、俺のこの記憶まではどうこうできる筈がない。
それに……俺は、響への疑念は一旦保留しておくことに決めたんだ。
信じられるのか信じられないのか、それは一旦棚上げし、まず目の前のことを受け入れ情報を集める――そう、決めたはず。
けれど……信じることも難しいが、保留することもかなり難しい。
(はぁ……)
苦悩に満ちた息を吐く。
しかし次の瞬間すうと吸い込んだ空気の中に感じ取るのは、響の匂い。
途端に苦悩は別のものへとすり替わる。
快感、煩悶、そして……
「うぅ……はっ!」
唐突に襲ってきた感覚にがばりと身を起こせば、周囲は真っ暗。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
時計を見ればまだ夜の2時。
「もう一度、休むか……」
休めるかどうかは分からないけれども。
ベッドに身を横たえようとした、その時だった。
ドアの隙間から漏れる光に気付いたのは。
向こう側にはリビング。
響が眠っている筈の場所だ。
明かりを消し忘れたんだろうか。
それとも、まだ起きているのだろうか。
扉から漏れる光を見つめながら、俺はしばし考える。
消し忘れたんだとしたら、消しておいた方がいいんじゃないだろうか。
起きているんだとしても、そろそろ寝た方がいいと忠告した方がいい。
いずれにしても、あの扉は開けた方がいいに違いない。
そう結論は出たものの――
いざ実行に移すことができず、俺は身体を起こしたまま躊躇する。
(……あれ?)
その時、俺の耳が何かを捕えた。
音?
歌?
暗闇であまり活用できない視覚の代わりに、鋭くなった聴覚がそれを感知する。
小さく続く節回しのようなもの。
どこかで――その音は、どこかで聞いたことのあるような響きだった。
つい最近聞いたことのあるような、あるいは、もう何度も聞いたことのあるような……
それは、扉の向こうから流れてくるようだった。
その音に押され、俺はゆっくり立ち上がる。
扉に手をかけると、音を立てないようにゆっくりと開いていった。
「――あ」
「……え、……あ、文さん!?」
扉を開けた真正面にはリビングのソファーがあって、俺と響はそのまま離れた場所で向かい合う形になった。
だから、俺ははっきり見て、そして聞いてしまった。
ソファーに足を組んで腰かけた響が、イヤホンを耳に付けて鼻歌を口ずさんでいるのを。
体の力を抜いてリラックスした様子で、よく見れば顔が僅かに赤い。
よくよく見ればテーブルの上にはビールの缶まで転がっている。
それは、例えば俺なんかであればごく普通の光景なのだけれども……完全に気を抜いた状態の響に、いつもの周囲に気を張っている王子様然とした様子は全くなくて。
缶ビールも全く似合っていなくて。
そのギャップに……何故か、少しだけ可笑しくなる。
「ふ……っ、あ、悪い」
「いえ……いえ、別に……」
声をかけようと口を開いた時にそう思ったのがいけなかったんだろう。
思わず、吹きだしたような声が出てしまった。
響はきまり悪そうな表情で俺から目を逸らす。
酔っているせいか、響の顔はわずかに赤い。
そんな顔も、今までに見たことはない。
「……すみません、起こしてしまったでしょうか?」
「いや、なんか眠れなくて……邪魔して悪かった」
なんとか取り繕うように立ち上がろうとする響を慌てて止める。
そして、ふと彼が今こうしている理由に思い至った。
「もしかして……俺のせい?」
「え?」
「俺が起きてる間は……その、響は気を抜くことができなくて……」
響はずっと俺に気を使っていた。
だから、響は俺が寝ている間しか気が休まる時がなかったんじゃないだろうか?
「悪い……」
「……いえ、決してそんなわけじゃないんです!」
申し訳ないと顔を曇らせる俺の言葉を、響は慌てて否定する。
「そうじゃないんです。決して、文さんのせいじゃありません。ただ……」
響の言葉が濁る。
俺から目を逸らしたまま、小さく唇を噛むその表情は酒のせいだけなんだろうか。
どこか落ち着かない、何かを誤魔化しているような――
昨日1日で知った響とは違う、どこか彼の素を見たような気がした。
「どうしたんだ?」
「……明日の本番のことを考えると、ちょっと眠れなくて」
頭をかきながら響はそんなことを告げる。
「何か問題でもあるのか? 初日はあんなにも盛況だったし――それに、すごくいい舞台だった」
「そう、ですよね。そうなんですが――いえ、すみません。俺もそろそろ休みます」
「……っ、危ない!」
響は立ち上がると、歩き出そうとする。
大して酔ってはいなんだろうに、その足はもつれ転びそうになる。
俺は思わず駆け寄ると、響の身体を抱き留めた。
「……っと、大丈夫か?」
「ありがとうございます……」
響を支えた俺が少しよろけたのは、決して俺が小柄なせいじゃない。
響の背が高くて、そして忘れていたけれどかなり逞しい体つきだったからだ。
俺が受け止めたおかげというよりも、響は自身の足で自分を立て直す。
……かのように見えた次の瞬間、そのままぎゅっと腕に力を入れた。
「……わっ」
「……今のは、カウントに入れますね……」
「は!?」
響は俺を拘束するようにきつく抱き締めると、俺の髪の毛に口付けた。
「文さん……」
「おい、響……っ」
頭から顔へと響の顔が下がってきて、頬と頬が重なる。
唇が、首筋に吸い付く。
駄目だ、こいつ、酔ってやがる!
「響、やめ……んんっ」
首筋を吸われた瞬間、ぞくりとした感覚が体の中を走り抜け思わず変な声が出る。
いつもより熱い手が俺の服の下を這いまわる。
その熱と強引さに、響の身体に酒が回っているのを実感する。
「や……っ」
俺は何とかその腕を振りほどこうと身を捩るが、響はびくともしない。
それどころか俺をソファーに押し倒そうと一歩足を進め……
「文さ……うわっ!?」
「わわっ!」
落ちていたビールの空き缶に足を取られ、盛大に転んでしまった。
「……っ……」
「あ痛たた……おい、響、大丈夫か!」
「え……その、何でもありません……」
転んだおかげで体が離れ、俺は急いで響から距離を取る。
そのまま、倒れたままの響に手を差し出した。
「ほら、今のは無かったことにしてやるから」
「……すみません、巻き込んでしまって……」
響は茫然とした瞳で俺を見上げる。
これじゃあ王子どころか大型犬だ。
何もかもが、今までのこいつとは違う。
酔ってなければ、きっとこうして逃げ出すことは不可能だっただろう。
いや、酔ってなければ押し倒されることもなかったか……?
まあ、いずれにしても酒のせいだ。
「いいから、ほら、立って」
「……」
差し出した俺の手を、響は黙って握り締めた。
そのまま腕に力を入れる。
まるで俺を引っ張っているかのように。
だが、俺だってそれを予想できなかったわけじゃない。
テーブルに手を置いて全力で引っ張り返すと、なんとか響を持ち上げた。
「……だから、早く、休めって……」
「……休んだら、文さんは何をしてくれますか」
「え?」
漸く口を開いた響だったが、その口から出た言葉の様子はやはりいつもと違っていた。
どこか低く、犬……いや、狼のような響き。
こいつ、やっぱりまだ酔ってるんじゃないだろうか。
「おい、響」
「キス、してください」
「は?」
「文さんがキスしてくれたら、寝ます」
「おい……」
駄目だ、この酔っ払い。
握り締めたままの俺の手を離すことなく、響は完全に据わってしまった瞳で俺を見つめる。
その様子は、今までの響の面影は微塵もない。
「寝るのは俺のためじゃなくて、お前自身のためだから……」
「……どうして、してくれないんですか?」
「どうしてって……」
俺は、お前と恋人になった覚えはないから……そう言おうとした言葉をつい飲み込んでしまった。
首を傾げどこか年上に甘えるような響の態度は、そうさせるだけの力があったから。
……今まで散々俺を心配して気遣っておいて、こんな時だけ後輩ぶるとか卑怯じゃないか。
けれども……
じっと俺の顔から目を逸らさない響を見ていると、いつの間にか妥協という単語が首をもたげてくる。
別に、それ位いいんじゃないか。
考えてみれば、この俺は以前にも響とキスくらいしてたんだろうし……それに昨日はキスどころじゃないことだって、してたわけだし。
決して俺にそんな意図はなかったにしても。
それで、この場を乗り切ることができるなら。
それで、響が落ち着いて眠ってくれるなら……
「……分かった」
普段なら絶対に首を縦にふることはないだろう。
なのに俺は、思わず頷いてしまっていた。
「文さん……」
「……っ」
そんな俺の前で響はぱっと嬉しそうな顔をする。
妙に年下らしい素直な笑顔を何故か直視することができず、思わず顔を逸らす。
けれども響は俺の顎を持つと無理矢理上を向かせた。
「いいんですね?」
「……」
改めて聞かれるとつい首を横に振ってしまいそうになる。
けれどももうOKしてしまったし……
「……っ!」
迷う間もなく、顎を持たれた俺の顔に響の顔が接近する。
躊躇する暇もなかった。
いいんですねと一応確認はしたものの、おそらくもうそのつもりだったんだろう。
そのまま奪うように俺の唇に響の唇が重ねられた。
「……んんっ」
響は乱暴なほど性急に俺の唇を吸い上げる。
緊張して思わず身体を強張らせると、舌でやさしく閉じた唇をなぞった。
「……ん、は……っ」
その感覚に震えると、力が抜けた瞬間を見計らったかのように唇を割って舌が入り込んできた。
「ん……んんっ!」
唇を吸い上げながら、俺の中に侵入した唇は咥内を乱暴に蹂躙する。
俺の全てを確認しようというかのように。
歯のひとつひとつをなぞり上げ、舌の裏側まで味見するかのように絡ませる。
「ん……んんっ」
その全ての動きが初めてで、俺はあっという間に我を失ってしまいそうになる。
その直前、気が付いた。
そういえば、俺はこうして誰かと唇を合わせた記憶はない。
響と恋人だと言われた後も、唇が近づきこそすれそれを重ねたことはなかった。
早まった、かもしれない――!
そう思った時にはもう遅かった。
響の唇は、舌はあっという間に俺を蹂躙していく。
「ん……っ、んん……っ」
響は俺の唇の入り口を刺激するようにうねらせながら、その舌を俺の中に突き入れていく。
かき混ぜ、わざと音を立てるように引き抜き、されるがままの俺を翻弄する。
響に触れられるたびに、翻弄されるたびに、俺の身体の芯が熱くなっていた。
昨日も同じように感じていた熱さ。
それがもっと明確に、俺の内側で燃えている。
理性を焼き付くし、欲望のままに動けと唆している。
蕩けていく思考はそれに抗いきれず、俺はそのまま身体の力を抜いてしまう。
「ん……」
それと同時に響は唇を重ねたまま俺をソファーに押し倒し――
「……ん?」
そして、響は動かなくなった。
「ん……ひ、びき?」
「……すぅ……」
訝しんでかけた声には、寝息が返ってきた。
寝た、のか?
こんな状況で?
いや、元々こいつ酔っぱらってたわけだし……
「……はあ……」
ぎゅっと抱き締められていた身体を離すと大きなため息をついた。
決して拍子抜けしたわけでもがっかりしたわけでもない。
いや、どちらかと言えばほっとする所だろう。
「……とにかく、寝てくれて良かった……」
俺は下に落ちていた毛布を響にかけると、そのまま一人部屋に戻った。
……そしてその後、昨日よりも激しく悶々とした感情に苛まれることになったのだった。
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