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第7話 6月26日 7:00 朝に取り繕う

「う……んっ」  朝の光を感じて、俺はまどろみの中から覚醒した。  昨夜、あまりといえばあまりな出来事が何度か俺の身に何度も襲い掛かってきたせいで、昨日はほとんど眠れなかった。  それでもなんとか早起きしたのは、昨日のことがあったから、  朝、だらしなく寝ている所を響に起こされ、おまけに朝食まで作っていてくれていた。  それが申し訳なくて、せめて少しでも早く起きなければと気合を入れていたのだ。  といっても、スマホはロックされ、目覚まし機能すら使えない。  時間だけは見えるので、朝方何度も目を覚ましては時間を確認し、結果的に酷い寝不足の俺が出来上がってしまった。  体は重いが、それでも世話になっているのだからあまり寝坊するわけにはいかない。  起き上がってみると、リビングからカレーの匂いがする。  昨日、俺が作ったやつを温め直してくれたらしい。  多少は朝食の手伝いができたんだろうかと、ほっとしながら部屋のドアを開けた。 「……」  何だ、これは?  リビングに入った俺の耳に、何かが届いた。  その、どこか聞いたことのある響きに一瞬混乱する。  つい最近聞いたことのあるような、あるいはもう何度も聞いたことのあるような、曲。  そしてそれが、響のご機嫌な鼻歌だと分かった途端、我慢しきれずつい吹きだしてしまった。 「……ぶっ」 「え……あ、文さん!?」  響はこちらに背を向け、朝食の用意をしていたため、俺には気付かなかったらしい。  その上、耳にはイヤホンが入っている。  そういえば、昨日の夜もこいつは何かを聞いてたよな。  ぼんやりそんなことを考えている俺に、響は僅かに顔を赤らめきまり悪そうに近づいてきた。 「文さん……おはようございます」 「おはよう、響。昨日遅かったけど、大丈夫か?」 「はい。文さんもよく眠れましたか?」  声をかけるとすぐにいつもの調子を取り戻したように爽やかな笑顔を浮かべる。  昨夜、キスを迫った時とはまるで様子が違う。  こいつ……もしかして、昨夜のこと覚えてないんじゃないだろうか?  見回してみるが、散らかっていたビール缶はきれいさっぱりなくなっていた。  まるで、俺の方が夢でも見ていたんじゃないかと思うくらいに。 「ええと、響……昨日の夜は、その……」 「どうしました?」  おそるおそる確認してみようとするが、響はいつもの笑顔を微塵も絶やさない。  あ、これは覚えてないな。  そう理解した俺は、昨夜のことは俺の胸の中にしまっておくことにした。  かわりに、気になっていたことを確認する。 「何、聞いてんだ?」  響の耳のイヤホンはポケットのスマホプレーヤーに繋がっている。  今こいつが口ずさんでいた歌……音楽は、そこから出ているんだろう。  その音楽が、妙に気になった。 『つい最近聞いたことのあるような、あるいはもう何度も聞いたことのあるような、音』  たしか、昨夜も同じ感覚に陥った筈。  あの後、酔っていた響によって有耶無耶になってしまったけれども……  今度こそ、その音の正体を知りたかった。 「ああ、これですね」  響は片耳のイヤホンを外すと、俺に差し出した。 「聞いてみます?」 「ん……」  響に顔を近づけイヤホンを耳に当てるのは少し抵抗があったが、好奇心には勝てずそれを耳に入れる。 「ん……?」  聞こえてきたのは、やはりどこか聞き覚えのある音楽。  胸の奥でうなっていたものが明確に形を取って現れたような気がした。  けれども、どこで聞いたのかはっきり思い出せない。  耳に馴染む響きは確実に俺に知っているもの。  俺は、これをつい最近どこかで聞いたことがある気がする…… 「これ……何だ?」  胸の奥に渦巻く疑問に耐え切れず、響に尋ねてみる。 「BGMです」 「ん?」 「上演中の、文さんも見た俺たちの芝居の――」 「……あ!」  言われて、やっと気が付いた。  どうりでつい最近聞いたことのあるはずだ。 「あれか、幕が上がる時と主要シーン、あと舞台転換の時にいつもかかってた曲!」  奇妙なほどするりと俺の中に入り込み印象に残った音楽。  けれども、芝居と一緒でなかったから聞くまで思い出せなかったのだ。  驚いている俺に、響は少し嬉しそうに説明する。 「これは、俺が一番気に入ってる、ループをイメージして作った曲で……」 「……って、作った?」  妙に芝居に合致していると思ったら、既存の曲じゃなくてオリジナルの曲なんだろうか。  そう考えて聞き直した俺に返ってきたのは、もっと意外な言葉だった。 「はい。……俺が、作ったんです」 「え……? お前、が……?」  こいつ、主演で……音響もやってるのか?  目を丸くする俺に、響はどこか複雑な感情が入り混じった様子で説明する。 「以前にもお話したことがあるんですが……俺は元々、音響の方に興味があって入団したんですよ」 「え……」  その言葉に、俺は絶句するしかなかった。  このいかにも王子な、役者になるべくしてなったような響が、実はスタッフを希望していたなんて。  それに、以前にも話したことがあるということは、この話は3ヵ月間の俺にもしたものなんだろう。  その時、俺は一体どう反応したんだろうか…… 「で、でもなんでお前、最初から主演に抜擢されてたじゃないか」  俺に起きた衝撃に比べれば全然まだまだだけれども、こいつの意外な面が少し気になって、質問を重ねる。 「劇団に入って早々に、日辻先輩が俺に主演をやれって……」 「ああー……」  また日辻のワンマンか。  それだけで全てが納得いったような気がする。 「いえ、それだけなら俺もお断りしようと思ったのですが……他の団員の方々も、俺は役者をやった方がいいと口々に……」 「ああー……」  それもまた、納得のいく理由だった。  ただそこにいるだけで華がある響を裏方にしておく理由なんかない。 「最終的には劇団名が『響演』なんだから、お前は演技をしろと押し切られました」 「そりゃ酷い……」  苦笑しながら響が語るあまりにも強引な結末に少し同情する。 「それでも……今は、役者をやって良かったと思っています」  響は俺を見つめながら、ゆっくりと話し出す。 「一番最初にそう思わせてくださったのは、文さんの脚本でしたから」 「え……」  その言葉に、俺は思わず口籠る。  それには構わず、響は話し続けた。 「俺がこの劇団で初めて主役を演じることになった脚本――それが、文さんのものでした。それが、とても引き付けられて……だから、ずっと主演を続けているんです」 「響……」 「まあ、その後文さんはすぐに劇団を辞めてしまったのですが」 「わ、悪い……」  口ではそう言いながら、俺の思考は混乱の最中にあった。  こいつが俺の脚本に魅力を感じてくれていたなんて。  俺の作品を、そんな風に思ってくれた奴がいるなんて。  俺が逃げ出した、この劇団の中で……  響の言葉は俺の胸の奥を甘苦しくくすぐるが、決して嫌な感じはしなかった。  けれども……だとするなら、こいつが役者をやるようになったのは俺にも責任の一端があるのかもしれない。  本人が納得してるんなら、それはそれでいいのかもしれないけれども……  どこか保護者のような気持ちになって、響に尋ねてみる。 「ええと、音響がやりたかったって、具体的にはどんな?」 「……これも、前にお話したことがあったんですが……」  響は苦笑しながら俺の質問に頷く。  その様子から、過去にもこの問答は繰り返されていたんだろうなというのが分かった。  それでも、響は嫌な顔ひとつせず丁寧に答えてくれた。 「……音楽が、聞こえたんです」  それは、あまりにも当然な言葉。  けれどもそこにはもっと何か意味が含まれているように感じて、俺は黙って頷いた。  響は少し言葉を区切ってそんな俺をちらりと見る。  長くなるけれどもいいでしょうかと言っているようだった。  俺がソファーに座り直すことでしっかり聞く姿勢を見せると、響は安心したように話を続けた。 「なんと言いますか、子供の頃から俺には音楽が聞こえてくるような気がして――」 「……」 「空の中に、水の中に、風の中に……それぞれが立てる音とはまた別に、その場その場には、空気のように音楽が存在しているんじゃないかって……」 「……分かる。それ……」  響の話はどこかふわりとしていて、内容と同様に掴みどころのないものだった。  けれども、俺はその話をどこか理解できるような気がした。  むしろ――共感していた。  俺も、同じだったから。  響が世界に音楽を感じていたように、俺も世界に物語を感じていた子供の頃のことを思い出す。  俺が静かに頷くのを見て、響は嬉しそうに微笑んだ。  この会話も、以前に繰り返されたものなのかもしれない。 「まあ、といっても俺は歌もあまり上手くないし、積極的に歌や音楽を聴いてきたわけではありませが……」  響自身、説明するのが難しいのだろう。  言葉を選びながら、なんとか俺に伝えようと苦心しているのが分かった。 「ある時、この劇団の公演を見て、そこに流れる音楽を聞いてこれだと思ったんです。世界に、音楽が流れているって。それ単体で完成する歌や音楽にはそれほど興味は持てませんでしたが、舞台上で流れるBGMにすごく惹かれることに気付いたんです」 「なるほど……」  つまり、こいつは作品……世界に作用するBGM……音響効果が気になって、それでこの劇団に入りたいと思ったってわけか……な?  響のどこかふんわりした説明を、なんとか自分なりに解釈してみる。 「……そんなわけで、音響を扱うスタッフの仕事が気になって劇団に入って――それから役者をすることになったのですが、今回の芝居でBGMの一部を担当させていただくことになったんです」 「そりゃ……良かったじゃないか」 「全部、文さんのおかげなんですけどね」 「え?」  いい方向にまとまった話に大きく頷くと、響はまた驚くべき過去を明らかにしきたる。  俺が?  俺のおかげ?  もしかして、それって俺と響が付き合ったという切っ掛けになった話なんじゃないだろうか? 「なあ、それって――」 「……話が長くなってしまってすみません。せっかく温めたカレーが冷めてしまうところでした」  追及しようとするが、響はさらりとそれをかわす。 「おい……」 「……できれば文さん自身に思い出して欲しい話なんですが……」 「……」 「お望みでしたら、また今晩にでも詳しくお話します」  そう続ける言葉がどこか少し寂しそうで、俺は続く言葉を飲み込んだ。  多分、いやきっとそれは大切なことなんだろう。  だからこそ、簡単に言葉で説明したくないのかもしれない。  諦めて、俺は別の話題を持ち出した。 「……しかし、芝居のことで悩んでいても聞くのはやっぱり芝居で使った曲なのか……」  昨日、今日の本番のことを心配して酒を飲んでいたときも、響はたしかにこの曲を聞いていた。 「今は、娯楽として聞いているので問題ありません」 「ああ、それはなんか分かる」  その返事がおかしくて思わず込みあがる笑みを押さえる。  自分の失言にも気づかないまま。 「――というか……」  響の小さな呟きが聞こた。  その声には、今までにない驚愕の響きがあった。 「どうして文さんは俺が悩んでいるって知ってるんですか?」 「あ……」  しまった。  そこで俺はやっと、自分の失敗に気付いた。  響が明日の本番について悩んでいると聞いたのは、昨日の深夜、響が酔っていたときのことだった。  俺の胸の奥にしまっておこうと思ったばかりなのに、ついうっかり漏らしてしまった。 「いや、それは……」  誤魔化そうとしたが、もう遅かった。 「やっぱり……昨日のは夢じゃなかったんですね」 「あ、いや」  響は青ざめた顔で俺の前に立つ。 「文さん……」 「いや、あれは……」 「……本当に、すみませんでした!」  言葉を探す俺の前で、響は深々と頭を下げる。  下げ過ぎて膝をついてしまう。 「いや、そこまで謝らなくても!」 「あー……」  慌てて止めるが、響はそのまま崩れ落ちてしまった。 「やってしまった……」  小さくなったままの響から、そんな呟きが聞こえてくる。  何だか分からないが、謝っているにしても落ち込んでいるにしても、大仰すぎるだろ。 「大丈夫かおい」 「あ……いえ、はい、すみません」 「どっちだよ」 「あ、その、大丈夫です」  全く大丈夫そうな様子を見せないまま、響はゆらりと立ち上がる。  そして俺の手を取ると心配そうに顔を覗き込んだ。 「いえ、それよりも……文さんこそ大丈夫でしたでしょうか? 昨夜のことは酔っていてあまりよく覚えていないのですが、俺、文さんに何か失礼なこととかしてないですよね?」 「あ……ああ、まあ……」  してる、というかさせられたとはとても言えなかった。  本当のこと――キスをねだられ、させられた――なんて言ったらこいつがどうなるか予想できなかったから。 「あ、ほら、それより朝食、カレー、本格的に冷めちまうし」 「あ、はい……支度しますね」  なんとか別方向に誘導すると、響は慌ててキッチンに向かった。  けれども、響の変調ははそれだけでは収まらなかった。  響は出来上がっていた朝食をテーブルに並べていく。  サラダと牛乳、そしてカレーの上には目玉焼き。  昨日といい、意地でも目玉焼きをつけたいのだろうか。  そして昨日同様、俺は普通の目玉焼きだったが……響の方は、ぐしゃりと潰れた目玉焼きだった。 「また、卵割るのを失敗したのか?」  響を落ち着かせようと、ごく軽い気持ちで声をかけた。  ――が、それがいけなかったらしい。  響ははっと立ち上がる。 「あ、いえ、今回は成功したのですが、フライパンに落とした時点で崩れてしまって……」 「おい、それ危ない……あっ」  否定するように大きく振った手が、ミルクポットに当たって倒れた。  そのまま転がったポットは勢いよくテーブルの下へと落下する。 「あ……」  豪快な音を立て、ミルクポットは四散してしまった。 「わ、あ、すいません!」 「いや……なんか、俺も悪かった……とにかく早く片付けよう」  中に入っていた牛乳が少なかったのは不幸中の幸いだった。  といっても、キッチンのかなりの部分に牛乳の飛沫が広がってしまった。  おまけにミルクポットはガラス製で、キラキラした破片がそこここに見える。 「とにかく拭いて……いや、掃除機かな。どこにあるんだ?」 「でしたら、奥の部屋に……」 「分かった」  昨日、響がノートパソコンを持ってきた部屋か。  キッチンを響に任せ、俺は掃除機を取りに行こうと立ち上がった。  そして、数歩部屋に向かった時だった。 「……あっ」  響の、今日何度目かの焦ったような声が聞こえた。 「ちょ……ちょっと待ってください!」  大きなガラス片を片付けていた響が慌てて立ち上がり、俺の方へ駆け寄ろうとする音が聞こえた。  俺はその声の意味を理解できず、そのまま奥の部屋の扉に手を伸ばそうとしていた。 「待って……開けないでください、文さん!」  そこまで言われて、はっと気づく。  そういえば、響は昨日もこの部屋に俺が入るのを止めようとしていたような気がする。  この部屋に何かあるのだろうか。  俺に見られたくない、何かが――  そのまま、気付かないふりをして扉のドアに手をかける。  それと同時に俺の後方に駆け寄った響がドアに手を伸ばす。  ドアノブの上で、俺と響の手が重なった。 「あ……」 「わ……っ」  そのまま扉が開き、勢いのまま俺たちは部屋に倒れ込んだ。 「あ痛たた……」  ドアノブにつかまっていたので多少緩和されたが、それでもそこそこの衝撃が俺にかかった。  同時に感じる、どこか覚えのある重みと温かさ。 「あ……す、すみません文さん!」 「え……」  気付けば俺はうつ伏せになって、その上には重なるようにして響が倒れていた。  この体勢は、先日俺が意識を取り戻した直後、響とベッドの中で重なった時状と同じ状態。  この直後に俺は…… 「あ……わっ、は、早くどけよ」 「は、はい、ちょっと待ってください……」  慌てて声をかけるがすぐにどくかと思った響はなかなか俺の上から動こうとしない。  どうしたのかと思って見上げると、その理由はすぐに分かった。  響の上には何か棒状のもの……掃除機のホースだろうか……や、その他いくつも重そうな家電らしきものが重なって乗っていたのだ。  先程扉を急に開けた衝撃で倒れたのだろうか。  とすると、響は俺を庇ってくれた形になる。  いや、そもそも……  そこで、俺は多少冷静さを取り戻して周囲を確認する。  今まで見てきた響の部屋は必要最低限のものしかなく、おまけに掃除が行き届いていた。  けれどもこの部屋は、必要最低限以外の全てのものをとにかく詰め込んだかのように混沌としていた。  俺にのしかかっているのは掃除機をはじめとしたいくつかの掃除道具、それに顔の近くにあるのはキーボード……音楽道具だろうか。  よくよく見れば健康器具なんかも転がっている。  ろくに片付けもせず入口の所に置いておいたのが災いしたんだろう、俺たちの上にはそんな道具たちが容赦なくのしかかっていた。 「文さん……お怪我はありませんでしたか?」 「わっ……あ、いや、何ともない」  そんなことを考えていると、いきなり耳元で響の声がした。  息が感じられるほど間近からかけられてくるその声は先日の情事の状況を思い出させ、思わず耳が熱くなる。 「本当にすいません……何だか色々巻き込んでしまって。今、移動しますから……っ」  俺の上で暫く動いていた響は、やっと道具をどかしたのかそろそろと身体をずらす。 「本当に……なんとお詫びしたらいいのか……」 「いや……動揺させて悪かった」  恐縮する響をなんとか慰めようと声をかけるが、即座に否定された。 「いえ、どう考えても俺のせいです! 元はといえば、俺が……いえ」  勢い良く食ってかかった声は、急にトーンダウンする。 「そもそも、俺が、文さんの言う通りにもっと片付けておけば……」 「は?」  全く身に覚えのない響の言葉に、思わず訝しげな声が出た。 「いや、それよりもせめて俺がもうちょっと……取り繕って誤魔化そうとしなければこんな事にはならなかったのに……」  取り繕う? 誤魔化す? 「おい……一体何のことなんだよ」  さすがに状況が掴み切れず、響に問いただす。 「はい……」  響は俺を見て、それから散らかった部屋を、最後に大変なことになっているキッチンを確認して、大きなため息をついた。 「そうですね……お話しなければいけません」 「俺は――その、文さんがこちらに暫くの間住むようになってからすぐ、厳しく注意されたんです」  色々大変なことが起きた結果逆に落ち着きを取り戻したらしい響は、てきぱきと散らかっているガラスの破片を片付け、牛乳も綺麗に拭きとった。  作業を続けながら、当時を懐かしく思い出すような低い声でゆっくり説明を始めた。 「俺が?」  そして切り出されたその言葉に、俺はまじまじと響を見る。  劇団の王子という二つ名を持つこいつのどこに、俺なんかが注意するような部分なんてあったのだろうか。  そもそも、俺は人のことも言えた立場じゃないだろうに……  その疑問に答えるように、響はすぐ言葉を続けた。 「なんと言うか、俺はだらしないから――今後、役者を続けていくためにもしっかりした生活をしろ、って」 「はあ……」  だらしない?  どこが?  説明されればされるほど疑問符は増えるばかりだ。  しかし構わず響の説明は続く。 「料理だってほとんどしませんでしたが、ホームベーカリーを買ってパンを作ったりして多少は食生活を気にするようになったし、部屋も片付けました……といっても、一部屋に荷物を押し込んだだけでしたが」 「ああ……なるほど、あのパンやこの部屋はその努力の結果ってわけか」  俺の言葉に響は頷く。 「はい。その努力……過程を今の文さんに知られたくなくて、ずっと取り繕うために演技をしていたんです」 「いや、何でだよ!」  響がすっと出したその結論に思わず反論する。  おかしいだろ色々。  俺が3ヵ月間の俺に戻って欲しいなら、そこを隠す必要はない……むしろ表に出していくべきだ。  けれども響はどこか拗ねるように僅かに唇を尖らせる。 「――文さんには、完成したかっこいい俺だけを見て欲しくて……」 「は?」 「以前の俺や努力中のみっともない俺を見せず、なるべくいい所だけ見せたかったんです」 「……は?」 「そうすれば、文さんはきっとまた俺のことを……俺に好意を持ってくれると思ったから」  更に首を傾げる俺に、響は苦笑して告げる。 「つまり率直に言いますと、文さんに好かれるために、かっこいい所を見せたかったんです」 「いや……いや、やっぱり分からない」  何度も首を振って見せると、響は少し考え込む様子を見せる。 「文さんの様子がおかしいと聞いた時、最初はそれはショックでした。けれどもある意味、これはチャンスではないかと思ったのです」 「はあ……」 「かっこ悪い時の俺のことだけ忘れてもらって、改めてかっこいい俺を見せることができれば、それだけ強く俺に好意を持ってもらえるんじゃないかと」 「どれだけ自信があるんだよ……」  俺が散々葛藤している一方で響が即座に出した謎の結論に俺は頭を抱える。  なんで、俺が響に好意を持つのは確定になってるんだろう。 「いや、普通さ……お前の立場だったら不安に思ったり疑問を抱いたりするだろ。俺のこんな状況を見れば」  そう、もし俺とこいつの状況が逆だったら――  響を前にして最初に感じた疑念や疑心暗鬼をひっくり返して考えてみる。  きっと最初は、俺が嘘をついたり誤魔化していると考えるのが普通だろう。  ちょうど響と出会った時点から記憶を失っているという、恋人として考えればあまりにも酷い状況。  それは何故かと考えれば、相手が恋人との関係を清算したがっているのではないかとか、取り様によっちゃいくらでもマイナス思考に向かってしまう。  なのに……  そういえば響は最初から俺を信じてくれていた。  俺の突拍子もない話を聞きいれて、色々協力してくれていた。  おまけに自分のいい所だけ見せようと格好までつけて―― 「お前は……ええと、俺が言うのもなんだけど、俺の言葉を疑ったりしなかったのか? 俺は自分でもこの状況が信じられないって言うのに……」 「はい」 「なんで!?」  響は俺の言葉に平然と答える。  俺に対して謎の自信のようなものを持っているように見える。  その自信の根元は一体何なんだろう。  食い下がる俺に、響は優しく微笑んで見せた。  格好をつけているわけでもない、なのにずるいほどに決まった笑顔。  思わず見惚れてしまった俺の耳に、その答はするりと届いた。 「――俺は、あの時の文さんを信じているから――」 「……っ」  響の言葉は、俺の中で様々な意味を持って渦巻いた。  『信じている』。  目の前の響を信じることができず、その上信じるかどうか決めることすら保留してきた俺にとってその言葉はあまりにも真っ直ぐで。  けれども、『あの時の文さん』。  その単語を聞いた時、何故か奇妙な息苦しさのような物を感じて。  ……いや、俺はその息苦しさの意味を既に理解していた。  答えは昨日の響の言葉にあった。 『たとえ、文さんが全く俺のことを見ていなかったとしても……』  そう、それと全く同じ。  響は3ヶ月前の俺しか見ていない。  響は俺を通して以前の俺を見ているだけで、今の俺を見てはいないんだ。  そうか、響もこんな気持ちで俺を――いや。  そこまで考え、けれども出てきた結論に俺は慌てて首を振る。  いや、これは明らかにおかしい。  響は俺に好意を持ってるからその結論に至るわけで、俺は―― 「――あ、じ、時間っ!」  間近で俺を見つめる響の視線を感じ、思考の袋小路に陥りそうになった俺ははっと意識を現実に引き戻す。  響の後方にあった時計を見つけ、慌ててなんとか誤魔化そうと話題を振った。  一体何を誤魔化そうというのか、自分でも分からないまま。 「え?」 「時間、大丈夫か?」  時計は既に9時を回っていた。 「……そうですね。10時には出るのでそろそろ支度をしなければいけません」  響と一緒に片付けを終えると目玉焼きカレーを温め直し、二人向かい合ってそれを食べる。 「それで――文さん、今日はどうしますか?」  色々あったがそれは一旦仕切り直して、響はまず今日のスケジュールを確認することから始めることにしたらしい。  俺も、気持ちを切り替えてそれに合わせることにする。  つい先程まで胸に灯ったその気持ちを深くつきつめて考えるのはどこか抵抗があり、正直助かったという気持ちもあった。  それに今日は今日で、やらなければいけないことがある。 「今日はできれば、昼と夜、2回とも舞台を見たいんだけど……」  それが、今日俺がやるべきこと。  あとは午前中にできればスマホショップに顔を出しておきたいところだ。 「あ、もちろんチケットは購入する。ええと……後で、金の算段がついたら……それか舞台袖から見せてもらうとか……」  次第に歯切れが悪くなる。  安くないチケット代を毎回払うのは今の俺にとってかなり厳しい。  それよりもスタッフの伝手で端から無償で見学させて貰った方が現実的なんじゃないだろうか。 「チケット代に関しては気にしないでください。……先日も言いましたが、前売り券は余っているので」  響は少し表情を曇らせて俺に告げる。 「そう……なのか?」  返事をしながら、今までとは少し違う響の表情が気になった。  そんなにも、売れ行きがいまいちだったんだろうか。  しかし響はそのまま笑顔を作ると、鞄の中からチケットを差し出す。 「ですから、せっかくなので客席から見ていただいた方がいいでしょう」 「あ、ああ……悪いな」  流れるような所作とその微笑みにについそのままチケットを受け取る。  先程浮かんだ不安気な表情は今はそこにはない。  けれどもそれは取り繕った演技なのだと、さすがの俺でも理解できるようにはなっていた。  だからつい、響にこう突っ込む。 「――別にもうカッコつける必要はなくないか?」  そんな俺に響は苦笑を返した。 「まあ……俺にはこっちの方が自然なんです」 「ならいいけどさ……」 「今日の公演は2時からと7時からです。文さんが来てくださるのを楽しみに待っています。ただ……」  そこで、響は僅かに言葉を詰まらせる。  その沈黙は不安というよりも、俺を気遣っているようだった。 「少しだけ、心の準備をしておいていただいた方がいいかもしれません」 「は?」  響が何を言っているのか、その時にはよく分からなかった。  だがその後まもなく、俺はその意味を理解する。  はっきりと、この目で。

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