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第8話 6月26日 19:00 演出家、日辻 出流
「……まじか……」
公演2日目、夜の回の会場を見渡した俺は茫然とそう呟いていた。
昼の回でも実感した事実を再び、いやそれよりも明確に突きつけられ体中の温度がすうっと下がっていくような感覚に陥った。
(心の準備をしておいていただいた方がいいかもしれません)
あの時にはよく分からなかった響の言葉の意味を、今しっかりと理解する。
時計を見れば、18時50分。
まもなく、公演が始まる時間だ。
なのに――
絶望的な気持ちで会場内を見回してみる。
客席には、本当に僅かな客しか入っていなかった。
(なんで……なんでこんなに人が少ないんだよ!)
叫び出したくなる衝動を必死で堪える。
昼の回も、人はそんなに多くなかった。
だが、夜の回のこの客席の空白は公演としてどうなんだろう。
俺が最初に見た初日公演は、初回ということもあってある程度の客が入っていた。
日曜日の夜は一般的にそれほど客が入らない。
その上、昼過ぎから雨も降りだしていた。
そんなマイナスの要素があるとはいえ……これは、あまりにも少ないんじゃないだろうか。
観客たちも同じことを思っているのか、俺と同様に不安そうに周囲を見回す客も少なくない。
実際、もし自分が見に行った芝居がここまで人が少なかったらその公演の出来について心配にもなるだろう。
そして観客でさえこうなんだ。
前売りでチケットの販売状況を知っていた響があんな様子だったのも納得いく話だった。
この芝居に関わったキャストは、スタッフは、どんな気持ちなんだろう。
俺だって……
この芝居の脚本を書いたことも、関わったことすらも記憶にない以上、そんなに深い思い入れがあるわけではない。
だけど、この客の入りは見ているだけで胸が痛くなってしまう。
何とかもっと大勢の客に、この芝居を見て欲しい。
知って欲しい。
叫びだしたい衝動を堪え、頭を掻き毟る。
ああ、でも今足掻いたところで何ができるというわけじゃない。
まもなく、芝居が始まる。
そう考えた所で、開幕前のベルが鳴った。
通常ならここで場内は次第に静かになってくるのだが、客席の状況を見ていた観客たちは「もう?」とざわめき始める。
だが、そんな客席の声を飲み込むように静かに流れていたBGMが高まっていく。
響が作ったという、あの曲が。
それを聞いているうちに、俺の心も静まってきた。
そして、幕が開いた。
「俺の欠片がいくつにも千切れて四散した――」
「その時、背筋が凍えるような轟音を耳にした」
聞き慣れた響の声が、客席に響き渡った。
※※※
「はあ――」
幕が下り明るくなっていく客席で、俺は満足のため息をついていた。
客の入りがどんなに不安でも、俺の今の状況がどれだけ不安定で心配なものであっても、この芝居にはそれを忘れさせるほどの力があった。
観客たちもそれを感じ取っているのか、最初の戸惑いはなく今は必死で舞台に拍手を送っている。
やっぱり、いい芝居だった。
昨日、そして昼の回でも噛みしめた感想を、再び心の中で繰り返す。
見れば見る程新しい発見があった。
最初はメインストーリーを追うだけだったが、落ち着いて全体を見てみれば他にも色々と見るべき箇所はあった。
舞台の端でも役者は動いて、台詞が無くても対話を行って話が展開されていた。
それに気づいたのは今回の途中からなので、きっと最初から追いかけていけばまた何か分かるかもしれない。
隅から隅までぴっちりと張り巡らされた演出の力にため息が出る。
これは、間違いなく日辻の力なんだろうな……
嫌でもそれを理解してしまう。
だけど……
会場から一人また一人と出て行く客をぼんやり見ながら考える。
なんで、こんなに客が少ないんだろう。
当初の不安は鳴りを潜め、むしろ純粋な疑問が浮かぶ。
これだけ面白い芝居なら、もっと人が来てもいいんじゃないだろうか?
そんな事を考えていたら、客席を立つのが遅くなってしまった。
それは――俺の大きなミスだった。
「――先輩、信良木先輩」
「……えっ?」
ぼんやりと開場を見ていた俺は、呼ばれているのが自分の名前だと悟った瞬間はっと立ち上がる。
目の前にいたのは、劇団のシャツを着たどこか見覚えのある男性スタッフ。
あ、まずい。
夜の部はこの後すぐ撤収があるから、早く客席から出なきゃいけなかったんだ。
そんな事情を思い出しながら周囲を見回してみると、いつの間にか観客は俺一人になっていた。
「大丈夫ですか?」
「わ、悪い……すぐに出るから」
貰ったチラシを抱え、ロビーに向かおうとする。
そんな俺に、スタッフは心配そうな顔をしたまま意外な言葉を投げかけてきた。
「あの――やっぱり、聞こえてしまったんでしょうか?」
「え……」
その声は、あくまでも俺を気遣っているような調子だった。
だが、その言葉はやたら鋭く俺に振りかかってきた。
「脚本のせいで……信良木先輩のせいで客の入りが悪くて残念だってお客さんが言ってたじゃないですか」
「え……」
振りかざした言葉は真っ直ぐに俺に突き刺さる。
俺のせい?
この客の入りが?
体中の血がすうっと引いて立ち上がることも出来なくなった俺に、スタッフは続ける。
「やっぱり聞こえてたんですね。信良木先輩……あ、今はもう所属してないから先輩じゃないですね。ああ、だから信良木さんは昨日も今日も立て続けにわざわざ客席で見てくださったんですよね。なのに……」
「……」
「脚本家を変更したのは日辻さんのミスだったのかもしれませんね。最初の脚本をあそこまで拒絶しなければ良かったのに、結果的に信良木さんにまでこんなに迷惑かけて……」
「……あ」
……ああ。
真っ白になった頭の中を流れ続けているスタッフの台詞を、最初はほとんど理解できなかった。
だが、その言葉の中にある感情が混じったのに気づいて、そして思い出した。
こいつ……このスタッフは、俺が抜けた後に脚本を担当していた奴だ。
そういえば響は脚本担当が急に都合がつかなくなって俺に回ってきたと言っていた。
おそらく日辻に手酷く脚本を否定され、結果これ以上書けないと投げ出したんだろう。
……俺みたいに。
それにはほんの少し同情しなくもなかったが……それよりも問題はこいつの言った台詞だった。
俺のせいで客の入りが少ない……たしか、そんな意味のようなことを言っていた。
そうなのか?
この劇団の公演はいつも盛況だったと聞いたことがある。
けれども今回の公演だけは違っていた。
今までと今回の違い……俺が、脚本を担当したから?
「俺の、せいで……」
ぐらりと、座っているにも関わらず世界が揺れていくのを感じた。
今まで不安はあるもののどこか他人事だと思っていたこの客の入りが、俺の責任だと……当事者だと突きつけられて。
俺のせいなのか?
俺の、脚本が悪いのか?
でも、俺はあの脚本は、芝居は、最高のものだと思っていた。
だけど、観客には認められていない……?
以前、脚本を日辻に否定されて追い詰められ、逃げ出したことがあった。
あの時と同じような……いや、それをも凌駕する恐怖。
けれども、ここには逃げ場はない。
あの時のように、辞めて済む問題ではない。
そんな俺を更に追い詰めるように、元脚本担当のスタッフは続ける。
「やっぱり信良木さんは久し振りの脚本製作でしたし無理させてしまったみたいで申し訳ありませんでした。ですが信良木さんの発想はたしかに面白い。だからよろしければ今後は原案を担当していただいた上で僕が脚色を作るとか……」
「……」
目の前の相手は俺に手を差し伸べるように何か言っているようだったが、それはもうほとんど俺の耳には入ってこなかった。
俺のせいで、客が少なかった。
俺の脚本が、失敗した。
俺が書いたわけでも作ったわけでもないのにただ目の前に突きつけられた結果に、俺の足元今にも崩れ落ちそうになっていた。
俺が……
「――違う」
その時、意外な所から救いの手が差し伸べられた。
「え?」
「……え、あっ」
「――全然違う」
俺を救い上げたその声は、ある意味俺が最も聞きたくなかった奴――演出家、日辻 出流のものだった。
日辻は特徴的な渦巻くような瞳で真っ直ぐに元脚本担当のスタッフを睨みつける。
喉の奥から唸るような声で、日辻は断言した。
「過去の公演が成功したのは脚本の――お前の功績じゃない。俺の演出が成功したからだ」
「あ……は、はい、分かります」
脚本担当は反射的に直立不動の体勢を取り、頷いた。
その足が僅かに震えている所を見ると、よほど恐怖を感じているんだろう。
日辻はそれには構わず話し続ける。
俺の脚本を否定した時と全く変わらぬ傲岸不遜な態度で。
「そして、お前が今回の公演が失敗だと思うのは脚本のせいじゃない」
「あ……」
日辻の言葉に思わず声の主を見つめと、いつもの渦巻くような瞳が俺を捉える。
そのままきっぱりと断言した。
「――そして俺の演出のせいでもない」
「えっ?」
「お前の感性に問題があるせいだ」
「え……ええっ!」
「……あ、ああ……」
結果的に日辻自身には泥ひとつかかっちゃいない。
けれども、何故かその謎の自信に満ちた日辻の言葉は俺を酷く楽にしてくれた。
日辻は、この芝居が失敗だったとは微塵も思っていないようだ。
「で……ですが日辻先輩、この客の入りはあまりにも酷い結果だと受け止めた方がいいんじゃないでしょうか?」
「観客の反応は良かった。見てない奴らについてあれこれ言っても始まらない」
「でも……」
スタッフが何か反論を探そうとした時だった。
「――文さん」
「わっ」
俺の真後ろで聞き覚えのある声が響いた。
そこにいたのは、響だった。
「お前……いつからそこに」
「八王子、見送りはどうした?」
思わず声をかけようとするが、それより先に日辻が口を出す。
「お客さんは全員帰られました。スタッフは撤収準備に入っています」
それに答えるように響は大きな声で返事をする。
まるで今のこの話を終わらせるかのように。
「別に……失敗と思っている訳では……」
スタッフはそれを聞くと、ぼそぼそと俺の前で何かを呟いて去っていった。
「文さん……その、大丈夫でしたか?」
「え……な、何が?」
響は去って行くスタッフと日辻には目もくれず、心配そうに俺に問いかける。
その言葉が先程あいつにかけられたものと全く同じで、俺は思わず身体をびくりと震わせた。
この客の入りは全部俺のせい――
先程感じた絶望を再び思い出す。
だが、響の問いかけは全く別の物だった。
「先程の先輩は、今回文さんが自分の代わりに脚本を担当することを相当心配していたようで……そして今回の客の入りについてもよく不安を口にしていたので」
「……そうだったのか……」
そういえば最後はそんな様なことを言ってたような気がする。
どうやら響は客席から出てこない俺と姿が見えなくなったスタッフに気付いて、俺を気遣って来てくれたらしい。
「……悪かったな。別に何もなかったから」
「そう、ですか」
「日辻が来て上手く言ってくれたって言うか、問題ないって収めてくれて……」
「……」
響がどこまで聞いていたのか分からないが、これ以上心配かけさせまいと慌てて事情を説明する。
だが、それを聞いた響の表情はより強張ってしまったようだった。
代わりに日辻が興味なさげに返事をする。
「――俺は客席を確認に来ただけだ。キャストは自分の片付けに入れよ」
そのまま、客席のチェックのために歩き出す。
「……あの、すみません日辻先輩」
それを響が呼び止めた。
その口調は丁寧だったが、どこか含みがあるようにも聞こえた。
「まだ何かあるのか?」
「文さん……いえ、信良木先輩が相談ごとがあるそうで……」
「……あ、いや! いいよ今はこんな忙しい時だし!」
響が日辻に切り出そうとした内容に気付いた俺は慌てて手を振る。
俺の仕事先のメールについてだ。
けれどもこんな撤収前の大変な時にわざわざ聞く内容じゃない筈だ。
「いえ、でも昨夜文さんが大変心配していたようなので……」
だが響は譲らない。
そのまま、記憶喪失関連を誤魔化すため多少の虚偽を挟みながら俺のスマホやメールがロックされてしまったことを説明する。
そんな訳なので、日辻が知っている仕事先の連絡先を教えてもらえないだろうかと。
話を聞いた日辻は小さく頷いた。
「――分かった」
「……え?」
今はそれどころじゃないと絶対にキレる! そう覚悟を決めていた俺は以外にもあっさりした日辻の返事に拍子抜けしたような声を出す。
だが日辻は客席ひとつひとつをチェックしながら、更に意外な言葉を続けた。
「けど今はお前のアドレスも使えないんだろ? 相手方の連絡先だけ教えてもどうしようもない。新規のアドレスじゃ本人かどうか証明もできないだろう」
「……それは、確かに……」
「俺の方から先方に状況を説明しておく。また後で返事を伝える」
「あ……わ、悪い……いや、ありがとう……」
淡々とだが丁寧に問題を片付けてくれる日辻に唖然としつつ、なんとか感謝の気持ちを伝えた。
正直助かったという気持ちより日辻が協力してくれたという事実の方に驚いてどう反応していいのか分からなかった。
ああ、でもそういえば日辻は芝居のことだけは異様に厳しかったけど、それ以外はどれも当たり障りなく器用にこなしてくれる奴だったっけ……
かつての恐怖が強すぎて忘れていたこいつの仕事ぶりを思い出す。
ともあれ、これで問題のひとつは何とか解決しそうだ――
気持ちが軽くなっていくのを感じながら、俺は日辻と響に改めて礼を言うと劇場を後にした。
響が俺に向けている鋭い視線には気付かずに。
その日、響が帰ってきたのは夜の11時近くだった。
「お疲れ様。遅かったな……劇場はもう閉まってるんだろ?」
「はい、その後近場の公園で少しミーティングがありましたから」
俺の言葉に響は静かに返事をする。
その声にはどこか余所余所しい響きがあった。
「公園……ああ、あそこか」
公演2日目で疲れているんだろう。
そう思った俺はなるべく芝居の話題に触れないようにして、話を続ける。
「あの公園、今でも練習に使ってるのか」
劇場と響の住むこのマンションのちょうど中間地点くらいにある大きな公園は、劇団員たちがよく使っている練習場だった。
練習場所が借りられなかったり閉まってしまった時、集まって軽く体をほぐしたり東屋でミーティングを行ったりしていた。
「……覚えていませんか?」
「え? 覚えてるけど……」
そんな俺に響がぼそりと問いかける。
けれども俺はただ首を捻る。
劇団に所属していた時のことは問題なく覚えている。
だから、響の質問の意味を受け取りかねていた。
そんな俺を響は一瞥すると、何も言わずにただ深い息を吐くだけだった。
……響は俺に何を期待していたんだろう。
それに応えられないことが妙にもどかしい。
「……ああ、腹減ってるだろ? さすがに連続でカレーは何だから、財布の金使って夕食の買い物させてもらったぞ」
「……すみません」
「ハンバーグ、食うか?」
「……ありがとうございます。ですが……本当に申し訳ありませんが、食欲がないので明日食べさせていただきます」
それだけ言うとキッチンを素通りして風呂へと向かう。
そのまま響とほとんど言葉を交わすことなく就寝時間となった。
……いや、その前に。
「あ、待った!」
2日前からずっと考えていた重要案件を、俺はやっと響に伝えることを思い出した。
「ずっと俺がベッド使ってたろ? けどお前の方が本番もあって疲れてるだろうし、交代しよう! お前がベッドで休めよ」
このベッドはお前との情事の香りが残っていて落ち着いて眠れない……なんてことは言えるはずもなく、どこか聞こえのいい理屈を寄せ集めて響に提案する。
けれども響は首を振る。
「いえ。俺ももうこっちで寝る方が慣れましたから」
「でも……」
「……今更、文さんの匂いのついたベッドで眠れません」
「……って……」
響は相変わらずの率直すぎる言葉を俺にぶつける。
けれどもいつもなら笑顔と共に俺に囁くそその言葉に昨日までの甘さはなく、むしろどこか仄暗い影のようなものを感じさせた。
「いや、俺がリビングで寝るから……」
「調べものがありますので、文さんは部屋で先に休んでてください」
食い下がろうとするが、取りつく島もない。
「じゃあ、その……早く休めよ」
「はい」
「あ、そうだ! 明日の朝食は俺が作るから! もうだいたいどこに何があるか分かったし……世話になってるんだし」
「ありがとうございます。ですが、明日は夕食のハンバーグをいただきますので」
「あ……そ、そうだったな。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
いまひとつ会話が噛み合わないまま、結局俺は響の部屋で寝ることになった。
寝る前にリビングを覗くと、響はパソコンに向かっているようだった。
しばらくするとプリンタが稼働する音が聞こえてきた。
あいつ、ちゃんと休めるんだろうか。
そんなことを考えながら、俺自身も睡魔に勝てずいつの間にか自分でも予想外なほどの深い眠りについてしまった。
朝起きた時、響が既にいなくなっているなんて予想もせずに。
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