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第10話 6月27日 10:00 誰がために揺れる?
「あ、れ、響……?」
太陽の光を感じて目を覚ますと、周囲に人の気配はなくなっていた。
朝特有のお湯が沸く香りも目玉焼きの油の匂いも、そして響の鼻歌も聞こえてこない。
胸騒ぎに飛び起きてキッチンに行くと、机の上にはもう朝食の用意が置かれていた。
その隣にはメモが一枚、2枚のチケットと一緒に置かれていた。
『とてもよく眠っていたので起こせませんでした。ハンバーグ美味しかったです。ありがとうございました。行ってきます』
時計を見れば、もう朝の10時。
さすがに響は劇場の方に行ったのだろう。
チケットは、今日の3時と7時からの舞台だった。
「――何だろう」
机の上に置かれた朝食を眺め、手の中のメモに目を通す。
どこか違和感があった。
部屋の中を見渡してみれば、響の分の片付けは自分で終わらせたのか流しには皿と茶碗が置いてある。
もう一度手の中の必要最低限のメモを確認して、そして気づいた。
チケットは置いてあるが、一言も『見に来て欲しい』とは書いていない。
今までの響だったら絶対にその一言は付け加えるだろう。
俺の朝食を作って自分の朝食の後片付けまでするくせに、響がその一言を省くとはとても思えなかった。
もしかして、昨日の……観客の入りを気にしているのだろうか。
あるいは脚本について俺が何か言われるのではないかと心配しているんだろうか。
あとは……そうだ、パソコン。
俺はリビングに置いたままになっているノートパソコンを立ち上げた。
昨日の夜、響は何か調べものをしていた。
それが何か関係しているんだろうか。
とりあえず今日の公演状況を確認しようと劇団のサイトを確認する。
検索バーに『劇団響演』と入れるとすぐ隣に『感想』の文字が浮かんだ。
響が過去に検索した文字だろうか。
「あ……」
思わずクリックしてしまい、『響演 感想』の検索結果が表示される。
しまったと思ったが、そのままいちばん上に出てきたサイトにアクセスした。
もしかしたら昨日、響はこれを検索したんじゃないだろうか。
何の確証もないが、ふとそんなことを思ったからだ。
それは、劇団のサイトに繋がっているSNSだった。
ずっと前に見たことがあったが、時々感想は書かれていたものの訪れる人もほとんどいない閑散としたコメント欄。
――のはず、だったのだが……
「……うわ……」
一目見て、思わずそんな声を漏らしていた。
検索サイトの一番上に出ていたそのSNSは、荒れまくっていた。
一応劇団サイトともリンクしてあるくらいだから、半公式といった存在の筈。
けれどもそこにはネットスラングが飛び交い、劇団や役者に関する虚実……ほぼ虚で占められた目を塞ぎたくなるような書き込みが並んでいた。
「何でこんなことに……」
とても直視することができず、しかしページを閉じることもできず、滑る目でその内容を眺める。
「……っ」
そして、見てしまった。
今回の公演の、悪意の籠った感想を。
コメントの話題は芝居の内容や感想ではなく、とにかく客が少ないといった事実。
そしてそこから始まる……嘲笑。
今までより公演日を増やした制作の失敗。
ワンマンな演出家――さすがに日辻のことは周囲にも知れ渡っているようだ――への文句。
主演の力不足。
そして……新たな脚本家――俺への不満。
俺を使った演出家の失策を、その俺の脚本を表現しきれなかった主演を、ひたすら嘲り罵り合う声に満ち溢れていた。
それを見ながら俺は、小さく震えていた。
「……響……」
真っ先に想ったのは、響のことだった。
不思議なことに、今の俺には自分が嘲笑されることよりも響が馬鹿にされることの方がずっと堪えた。
昨日、俺のせいで客の入りが少ないと言われた時はたしかに激しく落ち込んだ。
けれども俺は、知っている。
何も覚えていない俺なんかよりずっと、響は俺の脚本を想ってくれていたことを。
客の入りが思わしくないことを、眠れないほどに気に病んでいたことを。
だから……俺はいい。
どうせ罵られているのは3ヶ月間の俺だ。
だけど響を馬鹿にするのは、許せない。
やり場のない憤りを抱えながら画面を睨みつける。
そしてはっと気づく。
響がもしここを検索して見つけたとするなら、この嘲笑も目に入っているはず。
まさかとは思うけれども、昨日聞こえてきたプリンタの音は……
あくまでも、そう思ったという俺の勘でしかない。
けれどもメモを見た時に感じた違和感とその推測は妙に合致してしまった。
「どうしよう……」
俺に何ができるというわけでもないのに、ついそう呟いてしまった。
俺には何もできない。
響に何の力になってやることもできない。
いや……
一人だけ、それが可能な人物がいた。
いや、もう存在しないので「いた」と言うには語弊がある。
3ヶ月前の、俺だ。
響が一番望んでいたものを渡したと言う俺なら、あるいは――
「――つまり、やっぱり俺じゃ駄目だ……」
そのまま力なくソファーに腰を下ろす。
何もできない自分が情けなくて、呆然とブラウザを眺めていた。
暫くして、俺を動かしたのは空腹だった。
「ああ、朝食……」
キッチンを見ると、響が用意してくれた朝食が再び目に入る。
パンとサラダ、そして綺麗な目玉焼き。
「また、目玉焼きか……」
そしてふと思う。
響はやっぱり、片方の目玉焼きを失敗したんだろうか。
そして一人で失敗作を食べたんだろうか。
もしかしたらそれをハンバーグに乗せたりしたのかもしれない。
「……あ、れ?」
何故だろう。
あれだけ響に迫られたり愛を囁かれても俺は困惑こそすれ特に心を動かすことはなかった。
けれども、妙にあの歪んだ目玉焼きが気になった。
なんと言えばいいんだろう。
今朝、一緒に目玉焼きが食べられなかったのが……すごく、寂しい。
いや、寂しいって何だ。
けれども頭に浮かぶ単語は、残念とか悲しいとか、そんなイメージのものばかり。
……おかしいとしか言いようがない。
「……いや、冷静に考えてみよう」
俺はなんとかこの気持ちを整理してみようとする。
もしかしたらこれは、俺が響への感情を取り戻しているのかもしれない。
なら、またあの脚本のようないい作品が書けるのかも……いや。
「……違う……」
いくら言葉を並べても、どれもしっくりこなかった。
肝心な事実は3つだけ。
俺は響の側にいたい。
響の力になりたい。
けれども、“今”の俺には何も出来ない。
「……駄目か」
どう考えてもプラスに転じることのできない思考の渦の中を、俺はひたすら彷徨い続けた。
そしてこの日、俺は舞台を見に行くことはできなかった。
――そして、響は帰って来なかった。
※※※
「……何やってんだよ……」
俺は冷め切ったチャーハンを前に、うろうろとキッチンを歩き回っていた。
時計は夜の11時をとっくに過ぎ、まもなく日付が変わろうとしている。
劇場は9時には閉まるから、遅くても9時半には解散している筈。
昨日は公園でミーティングをして遅くなったと、響から聞いた。
けれども今日は……
窓の外を眺める。
梅雨前線の真っただ中、昼過ぎから降り出した雨は勢いを増し嵐のような豪雨となっていた。
(今日も、観客は少なかったんだろうな……)
この雨の中、わざわざ劇場に出向く人は少ないだろう。
結局響の顔を見ることができず公演にも行けなかった俺は、客の入りを考え胸を痛める。
いや、今はそれよりも響だ。
この雨では公園で話すことも難しいだろう。
マンションから劇場までは電車で1本。
もう終電も終わっているが、歩いたとしても30分はかからない。
他に立ち寄る所もないし、だとすると響が今帰っていないのは絶対におかしい。
椅子に立ったり座ったり、明らかに落ち着きのない様子で部屋の中をうろつく。
手の中には、俺のスマホ。
もし、これが使えていれば響と連絡が取れたのに……
事故にでも遭ったりしてないよな?
ふと、嫌な予感が俺を襲う。
そういえば俺と響の出会うきっかけも、響が車に引かれそうになったことだと聞いた。
ああそういえばマンションから駅に行くまでの間に、見通しが悪いくせに車の通りが多い道があった。
いっそ駅まで行ってみるかとドアに手をかけた時だった。
マンション備え付けの電話が鳴った。
「あ……」
一瞬、俺が出ていいのかどうか躊躇する。
けれども響かもしれないと考え直し、即座に受話器に手を伸ばす。
「はい……」
『――お世話になっております、劇団『響演』制作の日辻です』
「……え?」
予想外の声と台詞に、俺の思考は一瞬停止する。
だが、次に聞こえてきた気の抜けた声にすぐその相手に気付いた。
『ああ、信良木か』
「あ……日辻!?」
こいつ普段は物凄く愛想が悪いくせに、制作だけあって電話対応はしっかりしてるな……
思わず妙な所で感心してしまう。
けれどもすぐにそれどころじゃないと、嫌な予感が再び俺を包み込んだ。
「やっぱり響に何か?」
『……何のことだ?』
けれども日辻からの電話は完全に予想外のものだった。
『先日聞かれた会社の担当者からの伝言を伝えるために連絡した』
「あ……」
そういえばそんなことを日辻に頼んだんだっけ。
「悪いな……公演中なのに」
響の悪い連絡じゃないことにほっとしながら、けれども懸念が無くなったわけではないのでどこか虚ろな調子で日辻に礼を言う。
『仕事は全部受け取っているから安心して欲しいということだった』
「そ……そうか……」
日辻によると、俺は受け取った仕事は全部提出し、その後は脚本に集中するため少しの間仕事の受注を止めているのだそうだ。
だから、仕事関連では何もダメージを受けていないとのことだった。
それは、たしかに大きなニュースだった。
一日前の俺なら、小躍りして喜んだかもしれない。
でも今は、響の無事が確認できないと安心できない。
「どうも……すごく助かった。ありがとう」
『あまりそうは聞こえないが』
「……」
俺の声があまりにも沈んでいたのだろう。
日辻にまで突っ込まれてしまった。
いや、しかし今日一緒に公演をやっていた日辻なら、響について何か知らないだろうか。
「あの、ところで響のことなんだけど……!」
そう考えた時にはもう口に出して状況を説明していた。
『…………』
まだ響が帰っていないという俺の話を聞いた日辻は、少しの間考え込むように沈黙した。
『だとすると、まだあそこにいるんじゃないだろうか』
「あそこって?」
『ミーティング場の……』
「公園!? こんな天気に? いや……何で?」
思わず責めるような口調になってしまい、慌てて聞き返す。
『閉館後、八王子が俺に演技のことで質問しに来たのでそこに寄って話をした。俺はすぐに帰ったからその後あいつがどうしたかは知らない』
「そうか……ありがとう!」
日辻のぶっきらぼうな声に感謝の言葉を返してすぐ電話を切った。
玄関には昨日雨の時に買ったビニール傘がひとつ。
迷わずそれに手を伸ばすと、雨の中に飛び出した。
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