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第12話 6月28日 10:00 はじまりの終点
その日も朝から酷い雨が降っていた。
目覚めて重たい身体をなんとか起こしてみると、隣に響はいなかった。
時間を確認しようとスマホを探すが見つからず、時計を見ればもう朝の9時半。
響はいつも10時には出るから、支度を考えるとギリギリの時間だ。
……まずい、寝過ごした!
今日、俺は響と一緒に朝から劇団に顔を出そうと考えていたのだ。
今まで客として芝居を見ていたが、やはり最後くらいスタッフとして芝居を手伝った方がいいんじゃないだろうか。
響や……あと日辻たちを見て、改めてそう思った。
勢いよくベッドから飛び出そうとするが、やはり昨日のあれこれがたたってそう容易には身体が動かなかった。
(一度、シャワーを浴びた方がいいかもしれないな……)
そんな事を考えながらとりあえずシャツと下着類を身に着けリビングに出る。
そこには響がこちらに背を向けるようにして立っていた。
「おはよう、響……?」
響は俺の声を聴いた瞬間、びくりと身体を竦ませたように見えた。
まるで、俺に何か隠したいことでもあったかのように。
「響……?」
「……」
訝しげな俺の声に俺の方を向いた響は何も答えようとせず、そのままふいと顔を横に背けた。
何なんだ……?
そのあまりにもいつもと違う態度に不穏な気持ちを抱き、首を傾げる。
いつもの響なら「どうしました、文さん?」と、必要以上に丁寧な反応が返ってくるはずなのに。
その時俺は、響が手に持っていたモノに気付いた。
「何で……響が持ってるんだ?」
それは、俺のスマホだった。
昨日、俺の枕元に置いておいた筈のスマホ。
朝見つからなかったのは、響が持っていったから……?
響を見るが、そのいつも通り綺麗な顔からは表情を読み取ることはできなかった。
無言無表情のまま、冷たさすら感じる視線で俺を見下ろしている。
まるで昨日、あれだけ愛し合ったのが幻だったかのように――
「それ、中……確認したのか?」
響にかけるべき言葉を見つけられず、思わずそんなことを聞いてしまう。
普段なら……昨日までの響なら、俺のためにロックを外そうと持ち出したのだろうとか前向きに考えることができただろう。
けれども今の響を見ると、まるでそれ以外の意図でもあるかのような気がして、どうにも心がざわついてしまう。
響は何も答えない。
その様子は、俺の質問を――俺そのものを拒否しているかのようだった。
そんな響を見ているうちに、俺の心の中のざわつきは大きくなってきた。
「なあ、響……」
混乱したまま響に声をかけるが、響はすいと俺から目を逸らして再び俺のスマホを見つめる。
そこで、俺の混乱は今までと別の形を取って爆発した。
「――いい加減にしろよ!」
手を伸ばすと乱暴にスマホを奪い取る。
「返せ!」
「……」
「何なんだよさっきから何も言わないで! 何か俺に言いたいことでもあるのか? 黙ったままじゃ分からないだろ!」
朝から様子のおかしい響に不満をぶつけるが、響はそれでも何も反応せず、時計を見る。
針はちょうど、10時を指した所だった。
響は無言のまま俺に一礼すると玄関の方に向かう。
「あ……」
既に支度は終えているらしく、いつもの様に劇場に向かうんだろう。
一瞬、俺も響に着いていくために後を追い掛けようかと思った。
けれども、さっきまでの響の態度を考えるとそれはできなかった。
「――行ってきます」
今日初めての言葉を発すると、響は家を出て行った。
「何……だったんだ!」
一人取り残された部屋で、俺は憤慨したまま響の態度を思い出す。
昨夜、俺たちは気持ちを確かめあれだけ愛し合ったよな?
なのに、その次の日にいきなりなんであんな態度を取りやがるんだろう。
まさか……考えたくはないけれども、あれが、目的だったとか?
スマホを持ってたけど、ロックしたのは響の仕業だったりするんじゃないだろうか?
……まさか!
俺は思わず手に持ったスマホを確認してみた。
けれど、相変わらずロックはかかったまま。
「……良かった……」
いや、良くはないんだが思わずそう呟いてしまった。
ロックがそのままということは、響がかけたわけじゃないということだから。
相変わらず、パスワードは分からないままのスマホを俺は握り締める。
パスワード……
ふと、思いついて俺はある単語を打ち込んでみた。
『HACHIOUJI HIBIKI』
「あ、え――!?」
まるで何事もなかったかのように、ロックは解除された。
「いやそんなあっさりと……」
恋人の名前をパスワードにするとか、なんてベタな……
それはそれで気付かなかった俺もうかつだったけどさ。
唖然としてごく普通に見られるようになった画面を俺はしばらく眺めていた。
けれどもすぐに思い直して文章アプリを開いてみる。
パスワードは再び、『HACHIOUJI HIBIKI』。
「やった……!」
開いた。
あれだけ苦労していたロックは簡単に外れてくれた。
「やった……やった!」
俺は今までのモヤモヤも忘れ保存してある文章を確認する。
「……って、あれ?」
中には、見覚えのないファイルがいくつかあった。
それ自体はおかしなことじゃない。
けれども、そのタイトルが気になった。
『【緊急】重要確認事項』
重要確認事項……?
妙な胸騒ぎを感じて、ファイルを開けてみる。
それは、ごく少量のテキストデータだった。
「え……?」
『6月28日、千秋楽当日、響をいつもの時間に一人で劇場に向かわせるな』
そんな文章が目に入った。
6月28日って、今日だよな……?
胸の鼓動が早まるのを感じながら、続く文字列に目を通す。
『もしもう出てしまったなら、急いで追いかけろ! 今すぐに! そして話しかけろ。他のファイル確認は後でいい』
「何だよ、これ……」
6月28日千秋楽当日、響はたった今劇場に向かって出ていった。
その行動に疑念を持っていた俺は、それをただ見送った。
まるでそれを全て見ていたかのような、このテキストデータ。
これは、俺が書いたものなんだろうか……?
俺の中の混乱は最高潮に達していたが、それと同時に言い知れぬ胸騒ぎを感じていた。
「追いかけた方が、いいのか……?」
テキストにはたしかにそう書いてあった。
ファイルを見ると、他にも『その他確認事項』というものがいくつかあった。
これを読めば何か分かるのかもしれないが、他のファイル確認は後でいいとちゃんと釘が刺されている。
「響……」
文字列を眺めているうちに、胸騒ぎはどんどん強くなっていく。
「……っ!」
俺はそのまま、傘もささずに雨の中を飛び出した。
雨は一層激しさを増し、目の前も見えないほどの勢いになっていた。
響は、駅に向かったんだろうか。
俺は必死でその方向に向かって駆ける。
何で俺はこんなにも急いでいるんだろう。
分からない。
全く分からないが、あの文章には俺をそうさせるだけの力があった。
とにかく、一刻も早く響に追いつかなければいけない。
でないと、何か取り返しのつかないことになる――
追いついてどうすればいいのか、何が待っているのか分からないまま、ただ胸騒ぎが命じるままに俺は駆けた。
間もなく遠くに駅が見えてきた。
その前に少し見通しの悪い交差点がある。
そこに、見覚えのある背中を見つけた。
「響!」
思わず声が出た。
自分でも意外なほど、それは悲痛な声だった。
その声に気付いたのか、響は俺の方を振り向いて――笑った。
それは今朝のような冷たい表情ではなく、いつもの優しい微笑み。
だが響はすぐに前を向くと、道路を渡り始める。
(その日……俺は、文さんに命を助けられたんです)
ふと、以前響が話していた言葉を思い出す。
(思わずバランスを崩して転んだら、目の前を信号無視のトラックが通り過ぎて……)
「響……っ!」
訳が分からないまま、手を伸ばす。
けれどその手は響の背中には届かなかった。
そんな響の背中が――消えた。
「あ……」
その時、背筋が凍えるような轟音を耳にした。
目の前を信号無視のトラックが通り過ぎた。
トラックが、響をかき消した。
急ブレーキの音、スリップする音。
そして、響の欠片がいくつにも千切れて四散する音――
「ひびき……っ」
目の前で起こったことが、理解できなかった。
それでも世界は止まることなく動き続けていた。
響と、俺だけを置き去りにして。
人が叫ぶ声、怒声、鳴り響く悲鳴。
血を、欠片を洗い流す雨。
嘘だ。
こんな筈、ない。
響は……あいつは、どこに行ったんだ?
視界が歪む。
ありえない世界が、ありえない形へと収束していく。
違う。
絶対に違う。
そんな事、あるはずない。
絶対に――
耳の奥で音楽が鳴り響いた。
つい最近聞いたことのあるような、あるいは、もう何度も聞いたことのあるような、音楽。
音はどんどん強くなっていく。
俺を飲み込むほどに。
そうだ、飲み込め。
この間違った世界なんか、全て飲み込んでしまえ――
ここではないどこかの世界で、俺はそう祈った。
そして、その祈りが通じたかのように世界は歪んだ。
(俺の欠片がいくつにも千切れて四散した)
(背筋が凍えるような轟音を耳にした)
どこかで聞き覚えのある声が響いた。
「あ……!」
目の前には、響の背中があった。
今にも道路を渡ろうとする、響の背中。
「響!」
訳が分からないまま、それでも必死で手を伸ばす。
無我夢中で抱き着くようにして、響に飛びついた。
「うわ……っ!」
響はバランスを崩して転倒する。
そのすぐ前を、信号無視のトラックが通り過ぎていった。
「え……」
「響、無事か!?」
呆然とそれを見送る響の肩を抱き締め、身体を確認する。
響だ。
どこも傷ついていない、五体満足の響がそこにいた。
「良かった……」
心底ほっとして、呟く。
けれども次の響の言葉に俺は愕然とした。
「え、ええと……貴方は……どなたでしたっけ?」
「え……」
「あ、そうだ……劇団の……信良木先輩、でしたよね」
「え……?」
響は見知らぬ相手でも見るかのように、感情の無い瞳で俺を見つめる。
その視線を受け止めきれず思わず目を逸らすと、目の前に一面の桜色が広がっていた。
「え、え……?」
いつの間にか、雨は止んでいた。
それどころか周囲に舞っているのは、桜吹雪。
「え……!」
見渡してみれば周囲には桜が立ち並び、つい先程とはまるで違った冷え冷えした空気が流れていた。
「あ……」
「あ、血が出てるじゃないですか! 信良木先輩、大丈夫ですか?」
俺の耳に、響の声がただ流れる。
桜。
俺を信良木先輩と呼ぶ響。
全てのことが信じられないまま、俺は呆然と舞い散る桜を眺めていた――
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