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第13話 3月20日 12:00 基点――ここから全てをはじめよう

 窓の外には、やっぱり桜色の並木道。  俺は病院のベッドの上、ぼんやりそれを眺めていた。 「早く病院へ!」 「い、いや、いい……」 「頭を打ったんですよね? 検査した方がいいですよ」 「いや、その、金がないし……保険証もない」 「それくらい俺が出します! 先輩は俺を庇って怪我したんですよね? だったら!」  あれから、呆然としたまま俺は響とどこか既視感のある会話を交わした。  そして響は強引に俺を病院に連れて行った。  そして……俺は検査結果を待っている。  検査中、医者とこんな会話をした。 「今日は何日か分かりますか?」 「え……6月……28日?」 「少し意識の混濁が見られますね」 「って……何日なんだよ、今日は!」 「……」 「頼むから教えてくれよ!」 「20日ですよ」 「何月の!?」 「……3月、20日です」 「……」  それから今までの間、俺は必死で状況を整理していた。  今は、桜吹雪の舞う3月20日。  雨の中の6月28日……響が事故に遭った日付とは違う。  そう――響は、トラックに撥ねられた。  そして、死んだ。  俺の目の前で。  俺の手が届かなくて―― 「……ぅ、あ……」  刹那、四散した響の姿がフラッシュバックして頭を抱えうずくまる。 「先輩、大丈夫ですか!?」 「あ、ああ……平気、だ」  そんな俺に声をかけたのは、当の本人の響だった。  響は俺のことを先輩と呼ぶ。  文さんではなくて、信良木先輩と。 「……悪い、ちょっと一人になってもいいか?」 「はい、でしたら俺は少し買い物をしてきます。何か欲しいものはありませんか?」 「ノート」 「え?」  俺の返事を聞いた響はほんの少し可笑しそうに表情を緩める。 「何か飲み物でも……と思ったんですが」 「あ……」  今の考えをまとめたくてつい頼んでしまったが、考えてみればそんな状況でもなかった。 「あ、悪い……何か、お茶でもあったら頼む。ついでにノートと、何か筆記用具があったら頼めるか? もちろん後で金は払うから」 「それくらい大丈夫ですよ」  響は小さく微笑みながら、病室の扉に手をかける。 「あ――」 「どうしました?」 「い、いや、何でもない」  自分で一人になりたいと言っておきながら、響の姿が見えなくなりそうになるとつい心配になって声をかけてしまった。  響は怪訝な顔をしながら病室を後にする。 「……生きてる……」  そうだ、響は、生きている。  何故なら、今は3月20日だから。  3月20日。  その日は、俺にとって忘れられない日だった。  この日、俺は記憶を失った――と、思い込んでいた。  3月20日の昼ごろ、俺は道を歩いていて――そして、気づいたら6月25日、響と共にベッドの中にいた。  3ヵ月間の記憶が飛んでしまったのかと、その時は思っていた。  でも今俺はその3月20日にいる。  つまり、俺は、3ヶ月先の未来に行って、今戻ってきた――?  頭を打った俺が、幻を見ていたという可能性もある。  けれどもつい先程の響との会話――保険証や病院云々は、響から聞いた説明と全く同じものだった。  じゃあ、俺はこれから響のマンションに世話になるのか?  響の芝居の脚本を書いて、親しくなって――そして、恋人になるのか?  公演が始まって、そして響は事故に…… 「……いやだ」  そうだ、あれが本当に未来かどうかは分からない。  けれども、いずれにしても響が死ぬのだけは絶対に阻止しなければいけない。  最悪のケースを想定して、それを阻止するために動こう。  ……となると、どうすればいい?  響に6月25日、車に気をつけろと忠告する?  いや……  俺は額を押さえながら首を振る。  いきなりそんな話をしたって、この状況じゃ頭を打ったと思われるだけだろう。  それどころか、引かれてしまうかもしれない。  響のベッドの中で混乱していた俺の様子を思い出す。  いきなり3ヶ月後の未来に行ったという響の話を聞いて、俺はとにかく混乱した。  響を疑ったりもした。  実際にはおかしいのは俺の方だったんだが……  それに――  額に当てた手に、ぎゅっと力が入る。  俺と響はほとんど接点がない、ほぼ初対面に近い状態だ。  3ヶ月後に事故に遭うから気をつけろなんて言っても、まともに受け取ってくれるかどうか分からない。  下手したら、奇妙に思って引かれるかもしれない。  それは、色々な意味で避けたい。  忠告が届かなくなるのを避けるためにも、響に敬遠されないためにも……  そう。  ひとつだけ、確かなことがあった。  俺は、響に――好かれたい。  以前の……未来の俺が見たような、優しく熱い視線を向けられたい。  恋人に、なりたい。  つい先程まで俺に向けられていた、響の丁寧だが熱の無い視線を思い出す。 『信良木先輩』と俺を呼んだ声を思い出す。  あの時は響が無事だったことで頭がいっぱいでそれ所ではなかったが、今になって改めて思う。  響が俺のことを思ってくれないことが、見てくれないことが、耐えられない。  見て欲しい、俺を。  想って、触れて、そして……  響が事故に遭う前の、響と共に愛し合った一夜のことを思い出す。 「……そうだ!」  そして俺はやっと気づいた。  恋人になりたい、じゃない。  ならなければ、いけないんだ。  今から3ヶ月の間に俺は響と愛し合わなければ、いけない。  もし今の状況がそのまま続いた場合のことを考える。  今から3ヶ月後、もしかしたら俺は響のことを何も知らない3ヶ月前の俺に戻ってしまうのだから。  それでも響は俺を愛してくれたから、俺も響に魅かれることになる。  でなければ今の俺はないわけで――  つまり、永遠に響と恋人になる機会は失われてしまう。  ……いや、それだけじゃないんだ。  この際、恋人かどうかなんて響の死の前にはどうでも……良くないけれども、いいとしよう。  それよりも、3ヶ月後の響が事故に遭う時の俺は、今の記憶が無い俺だ。  だから、そのままの俺が事故を止めることはきない。  それに、もし結ばれたとしても……  あの時の朝の様子を思い出す。  あの日俺は、響の様子がおかしいことに疑念を抱き、あいつを一人で劇場に向かわせてしまった。  そして響は事故に遭った。  俺が響について行けば、あるいは事故を回避できたかもしれない。  当時の俺がもっと響のことを信じていれば、愛していれば……響を助けられたかもしれない。  そうだ。  俺は――響と愛し合う。  俺があれだけ羨んだ、響に信じてもらっていた3ヶ月前の俺になるんだ。  いや、俺が知っている3ヶ月前の俺よりも、響と愛し合わなければ。  そしてその絆を3ヶ月後にも結べるようにしなくては。  事故の日、響と一緒に出掛けるのをためらわない程、俺が響に魅かれるように。 「――できるのか、俺に……?」  自分が出した結論に、ため息とともについ弱音が漏れる。  けれど、できるかどうかじゃない。  やらなければ、いけない。  響を助け、そして愛し合うために…… 「――遅くなってすみません、先輩」  そこまで考えた所で、響が戻ってきた。  手にはお茶のペットボトルとコップの入った袋、そして濡れないように別の手にわざわざノートを持って。 「ああ、悪い」 「先程先生に会ったので、様子を伺ってきました。まもなく先輩の所に来てくれるそうです」  響はペットボトルの中身をコップに注ぎながら説明してくれた。  検査の結果は何ともなかったが、頭のことなのでここ数日間は経過を見ていないといけない。  もし何かあったら至急病院に連絡すること、という話だった。 「それで……」  響は申し訳なさそうに切り出した。 「先輩は、ご家族の方とは一緒に住んでいらっしゃるのでしょうか?」 「いや……」  なんとなく、この先の展開は読めてきた。  俺はこの後どうなるか、響から聞いて知っている。  けれども自分から言い出すわけにもいかず、黙って響の話を聞いていた。 「それでは、何かあってもすぐに動けるように俺が先輩の家に泊まりましょうか?」 「いや、それが……」 「突然倒れたりしたらいけませんし……」  言い募る響に、申し訳なさそうに俺は告げる。 「家は、ないんだ」 「え?」 「寮から出たばっかりでこの先なにも決めてなかったから、ネカフェにでも泊まろうかなと……」 「でしたら、しばらく俺の家に泊まったらどうでしょう? 経過の観察のためにも」 「いや、それは悪いだろ」 「どうせ一人暮らしのマンションなんです。助けてくれたお礼に、どうでしょう?」 「俺としちゃすごく有難い申し出なんだが、そこまで迷惑はかけられないし」 「どこかで先輩が倒れてしまうよりずっとましです」 「……すまない」  分かっていた展開だが、無事その通りになってくれて俺は小さく息を吐く。  これで、しばらくの間響と同居することが叶った。 「あ……その、家賃はちゃんと払うから」 「構いませんよ、それくらい」  俺の申し出に響は笑って首を振る。  響のマンションは結構な大きさだったから、たとえ折半しても家賃はかなりのものなんだろう。  だからそれはありがたい申し出なんだが……さすがに少し申し訳なくなる。 「ならせめて家事とか、世話になるお礼はするから」 「それはありがたいのですが、今はなるべく安静にしておいてください」  響は苦笑しながら答えた。  そして医師の診察が終わり、無事解放された俺たちは響のマンションに向かって歩いていた。  その道は俺にはどこか見慣れた道ではあったが、“今”の俺には初めてのはず。  だから響から少し遅れて俺は歩く。  しばらく歩を進めていた響は、ふいに立ち止まる。 「――あ、すみません。少し買い物をして行ってもいいでしょうか?」 「あ、ああ」  その視線の先には大き目なショッピングセンターがあった。 「……で、お前、もうちょっと何と言うか……」 「え?」  響の買い物に付き合っていた俺は、思わず溜息を洩らした。 「どうしました? もし疲れてしまったのでしたらそこのベンチで――」 「じゃなくて」  呆れた視線を向ける俺を、響は首を傾げながら見る。  その手元にある買い物カゴの中身。  それが、問題だった。  惣菜、レトルト、スナック、酒――  そこには料理をする気など一切ない食品の数々が詰め込まれていた。 「食材! 出来合いばっかじゃなくてせめてもっと食材を買って料理しろよ!」 「はあ――」  俺の言葉にも響は理解できないといった様子で首を傾けるだけ。 「ええと、せめて卵とか、タマネギとか……」 「俺には使いこなせません」 「俺! 俺が料理するから!」 「それは申し訳ない……」 「二人分の既製品を買ってもらう方が申し訳ないよ!」  そう説き伏せ、なんとかめぼしい食材を購入する。 「もう少し寄ってもいいですか?」  更に響はショッピングセンターの中にあるパン屋によると、次々とパンをトレイに取って行く。  食パンにフランスパン、ソーセージや卵の乗った惣菜パンにチョコや餡子の菓子パン…… 「またそんなに買って……」 「いつも朝食はこんな感じですが? 二人いるから、二人分です」  呆れ顔の俺に響は平然とした顔で答える。 「お前なあ……」  思い出すのは、3ヶ月後の響の作った朝食。  家で作ったパンとサラダ、そして目玉焼き。  シンプルで、だけど綺麗にバランスの取れた朝食はこの3ヶ月の間にやっと整えられた形だったんだろうか。  同時に、後で聞いた響の言葉も思い出す。 (文さんに好かれるために、かっこいい所を見せたかったんです)  つまり、今の響は恰好つける前の、素の響?  顔に貼り付いたかのような常に浮かべていた微笑は、今その顔にはない。  驚いたような困惑した表情は、俺よりも年下の後輩らしい顔だった。  なら、俺も先輩として行動しなくちゃいけない。 「悪いとは言わないが、市販のパンばっか食うな。朝食にそんなにパンを食べるならいっそ自分で作れ」 「いや、それはさすがに無理ですよ」  冗談かと苦笑する響に真面目な顔で説明する。 「今ならホームベーカリーとかで簡単に作れるから。それに材料に野菜やナッツでも入れればそれだけ栄養も取れるだろ。何より、買うよりよっぽど経済的だし!」 「はあ……」  困惑している響に、ついでだとばかりに説教を続ける。 「食事も出来合いばっかじゃなくて、簡単なものでいいから、それこそサラダとか目玉焼きとかでいいから作れ! お前、役者なんだろ? それなら身体を作るためにも、もっとしっかりした生活しろよ! あと交通事故には気を付けろよ特に交通量の多い交差点での信号無視の車!」 「……最後の注意に何の関連が?」  ついでに最重要な注意点を付け足すが、響は不思議そうに首を捻るだけだった。  まあ、今はいい。  いつか、この注意が響に届けば……  今は、その一歩。  これからゆっくり、けれども着実に一歩を増やしていこう。  相変わらず不思議そうにこちらを見つめる響に、俺はゆっくり微笑んだ。  響のマンションに到着してから、その部屋の散らかりっぷりに頭を抱えるまで――

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