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第16話 4月2日 22:00 夜のはじめの酔っ払い

 俺が……なんとかするしかないのか? 「乾杯ー!」 「乾杯!」  周囲からは賑やかな声が聞こえてくる。  俺の前にも汗をかいたグラスが置かれ、その存在を主張していた。  隣を見れば響もまたにこやかな様子でグラスを持っている。  やっぱり、俺がなんとかするしかない。  俺が、響を守らなければ。  唐突に始まった危機を前に、俺はひそかにそう決意していた。    ※※※  始まりはその日の夕方、劇団の練習場を訪れた時だった。 「――採用する」 「……おぉ!」  なんとか書き上げた脚本とレポート、そして響のBGMを確認した日辻は一言そう告げると、頷いた。 「となったら早速練習だ。まずはこれを人数分製本しよう」  日辻は俺の手から脚本を受け取ると立ち上がった。 「え、もう!? っていうか修正とか……」 「俺はこれにOKを出したんだ。その後修正が必要になったら随時書き込む。今は一刻も早く練習をしたい」 「おぉ……」  日辻の全面的な肯定に、俺は思わず感嘆の息を漏らした。  こいつにここまで言われたことはかつて一度も無かった。  思った以上に感動とか満足感といったものが体中を走り抜ける。  とはいえ、この脚本は完全に俺が作ったわけじゃない。  3ヶ月後の俺が3ヶ月前の作った俺の脚本の芝居を見て、それを元に作ったわけで……  いや、でも、となるとこの脚本は一体誰が創ったことになるんだろう。  今更ながら卵が先か鶏が先かといった事実に俺は少し首を傾ける。  そうしている間にも、日辻はさっさと劇団員たちに何やら指示をしていた。  脚本が完成したという声に、団員たちの間から歓声と驚愕の声が漏れているのが聞こえてくる。  ともあれ、これでひとつのステップが終わった。  あとは無事この脚本が上演されれば―― 「信良木先輩!」  ほっとして気を抜いた俺に、響が声をかけた。 「先輩も参加されますよね?」 「え?」 「決起会ですよ」  きょとんとしていると、響はすぐ状況を察して俺に説明してくれた。 「脚本が完成して練習に入る前に、団員全員で決起会をするんですよ」 「初耳だ……」  俺がいた頃にはない習慣だった。 「今から全員で脚本を製本して、それから居酒屋に向かうんです」  見れば、日辻は既にどこか――多分、居酒屋に連絡している。 「けど、俺は脚本を担当しただけで正式な団員じゃ……いや」  突然の誘いに困惑するが、すぐに考えを改める。  決起会……もしかすると、響との距離が縮まるイベントなのかもしれない。  響との仲がどこで進展したのか分からない以上、こういったイベントにはなるべく参加しておく必要があるだろう。 「――ああ、参加する」  俺はすぐにそう頷いた。  ――そして参加後、すぐにひとつの懸念を思い出したのだった。 (こいつ……大丈夫か?)  俺は隣で水割りの入ったグラスを掲げる響を心配そうに眺めていた。  思い出すのは、公演の最中、夜中にビールで酔っぱらっていた響。  こいつ、またあの時のように酒に飲まれて醜態を晒すんじゃないだろうか?  そうなる前に、俺がなんとかしなくては―― 「響、あんま飲み過ぎるなよ?」 「ええ、これくらい大丈夫ですが……」 「けど、役者だし、あまり飲んだら声が……」 「まだ本番からは日がありますし、問題ありませんよ」  何くれとなく響に声をかけ、注意する。  よくよく見てみれば、響はあまり他の団員と積極的に交流することをせず、酒を飲んで誤魔化すような節が見られた。  他の役者が響に酒を注ごうとするのを確認すれば、俺が代わりにそれを受ける。  響の代わりに出来るだけ俺が飲み、更に脚本のお礼ということで俺自身にも何度も酒を勧められ――  気付けば俺は、すっかり出来上がってしまっていた。 「先輩、大丈夫ですか?」 「あ、ぁ……ぜんぜん、もんだい、なぃ……」 「大丈夫じゃありませんね」  居酒屋からの帰り道を、俺は響に寄り掛かるようにして歩いていた。  同じ方向に帰る団員たちとタクシーを相乗りして途中で降ろしてもらったが、俺の足取りが危ういからと響が肩を貸してくれたのだ。  俺は大して酔ってはいないし、一人でも歩ける筈。  けれどもせっかくの響の好意を断るのも申し訳ないと、あえて響に体重を預けていた。  その、つもりだった。  酒なんて飲んだのは久しぶりで、おまけに響の分まで飲もうと頑張っていたのでどれだけ飲んだのか自分でも定かではない。  身体中が暖かくふわふわする感覚と響の体温が心地よくて、ぼんやりした感覚の中を漂っていた。 「あ、れ――」 「危ない!」  漂いすぎて俺の足はもつれ、バランスを崩して転びそうになる。  響がなんとかそれを支えるが、俺は地面に膝をついてしまった。 「あ……」  そんな俺の目の前に、見覚えのある灯りが見えた。  顔を上げると、そこにはあの公園があった。 「懐かしいな……」  響と、気持ちを確かめ合った場所。 「ああ、練習場ですね」  俺の言葉を響は劇団の練習場である公園を懐古していると受け取った響は穏やかな様子で頷いた。 「少し、休んでいきましょうか?」 「ああ」  公園を指差す響に、俺は素直に頷いた。 「ふぅ……」  公園の水飲み場で水を飲むなんて、何年ぶりだろう。  水分を取って落ち着いた俺は、東屋のベンチに座っていた響の隣に腰を下ろす。  相変わらずふわふわした気分は続いていた。 「今って、いつだっけ……?」 「えっ?」  思わず、そんな疑問が口をついて出た。  3月?  4月?  それとも6月?  俺の隣に響がいる。  俺たちは……どういう関係だったっけ?  付き合って、いるんだっけ?  思考が蕩け、甘い気持ちで心が満たされる。 「……先輩、大丈夫ですか?」 「……あぁ」  何度目かの響の問いかけに、静かに答えた。  それに安心したのか、響は一旦言葉を切り、暫くの間沈黙が流れる。 「……先輩、聞いてもいいですか?」  穏やかな時間を破るのを恐れるかのように、囁くような小さな声で響が切り出した。 「あぁ」  俺もまた、それに倣って小さく頷く。 「――どうして……俺のためにそんなにしてくれるんでしょうか?」 「……ん?」  響の声にはどこか真剣な色が含まれていた。 「どうしてって……そんなの決まってるじゃないか」  それが何故だか可笑しくて、俺は小さく笑いながら答える。  けれども響は相変わらず真面目な表情で俺に問いかける。 「俺を助けてくれたし、脚本を作るのも快諾してくれた。それに、俺の曲を使いたいとあんなに頑張ってくれた」 「そりゃ……当たり前さ」  響の真剣な声に応える俺の声はどこか軽くて、その落差にまた笑い出しそうになる。 「今日だって……俺に深酒をさせまいと、必死で代わりに自分が飲んでましたね。一体、どうして――」 「どうしてって……逆になんで、そんなことが分からないんだ?」  響の疑問に疑問で答える。 「分かりませんよ! 文さんは、何故……」  真剣な表情で話す響が面白くてはぐらかしていたら、もっと切実な声で響は問いかける。  その様子がやっぱりおかしくて、俺は笑いながら正解を告げた。 「ふふっ、俺が響のことを――好きだから」 「――え?」  それを聞いた響は心底驚いたような顔になる。  ……そういえば、面と向かって言ったことなんかなかったっけ。  俺は響の顔を真っ直ぐ見て、ふわふわした気持ちのまま言葉にする。 「愛してる……から、役に立ちたいし……守りたい。何があっても……」 「……」  言葉を続けているうちに、視界のふわふわはぐるぐるへと変化していく。  世界が、回っていた。  隣に座っているはずの響の顔が近づいてきて、こんなにも近くに―― 「あ……信良木先輩」 「ひ、びき……」  その台詞が耳に届いたのを最後に、俺の視界はブラックアウトした。

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