27 / 40

第27話 6月25日 7:00 二周目 オムレツ

 身体がほんのり暖かかった。  虚ろな意識を現実へと引き戻してみると、身体の上に温かい物がかかっているのを感じた。 「ん……」  鼻を掠める匂いは、嗅ぎ生れた響のものではない。  ふわりとした甘やかな香りではなく、どこか野生の動物を思わせるような匂い。  そうか、日辻、か……  俺はぼんやり昨夜のことを思い出す。  背中に当たる固い感覚は、畳らしい。  どうやら昨日、あのまま眠ってしまったらしい。  とすると、この布団は日辻が俺にかけてくれたものなんだろうか?  俺があいつと恋人同士なのかどうかは分からない。  けれども、日辻にも多少は優しい所があるようだ…… 「……って、あれ?」  そう思って身体を起こそうとして、違和感に気付いた。  手が、動かない。  手足に、何か固いものが巻き付いているような感覚があった。  なんとか身体を動かし布団をずらしてみると、俺の手足はロープのようなもので拘束されていた。 「え、何だ、これ……」 「――起きたか?」  もがいている俺に、日辻が声をかけた。 「日辻……」 「少しは思い出したか?」 「いや、さっぱり……と言うか、何だ、これ?」  日辻の声に思わず縋るようにしてロープを見せるが、少しも動揺する所はない。  ということは、これはまさか……日辻の仕業?  背筋にぞくりと冷たいものが走る。 「思い出せ」  顔色一つ変えないまま、日辻は俺に命令した。  いつもと微塵も変わらない様子で。 「でないと、今日一日そのままそこで過ごしてもらう」 「は!?」  こいつ、何無茶なことを言ってるんだ。  驚きと不満の声を漏らす俺に、日辻はせせら笑うように告げる。 「いいのか? 早くしないと今日の公演に間に合わないぞ」 「あ……」  そうだ、公演。  今日は、初日だ。  あれだけ3ヶ月前の俺が見たかった芝居を、今こそ見るチャンスだ。  だけど……  俺は何度も繰り返した3ヶ月を思い出す。  何度、脚本を書いたことだろう。  次第にそれは単純作業となり、ただただ記憶を書き写すだけのものとなっていた。  今日、上演される芝居は果たして俺が本当に見たいものなんだろうか。  もしも、あの時の俺が見たものと大きく違っていたら、俺ががっかりしたのなら……  それに、響のこともある。  今の響と俺はどんな関係なんだろう。  もしも完全に他人なのだとしたら……  響に会いたい気持ちと、恐怖が俺の中で入り混じる。  俺の中で迷いが渦巻いた。  そして俺はこんな結論を出す。 「――別に、俺は行かなくても……」 「は!?」  俺の言葉に日辻は激昂したような声を出した。  おそらく、俺がこの日辻と対峙してから初めて聞く声。 「何を馬鹿なこと言ってるんだ! 見るんだ! さっさと起きろ!」  つい先程とは真逆のことを言う。 「いや、でも、手……」 「以前にも縛ったことがあっただろう」 「だから覚えてないって!」  あったのか、以前にも。  そんな知りたくはなかった衝撃の事実に驚きながら、俺はなんとかロープをほどこうともがく。  そんな俺に、日辻は言葉の調子を変えず助言する。 「両手で解こうとするから無理なんだ。右手は固定したまま左手をねじって、そこから抜けろ」 「そんな無理……あれ?」  日辻の言葉に文句を言いつつ従うと、ロープはいともあっさりほどけた。 「以前、演劇用講習で習っただろ」 「いや、知らないし……」  唇を尖らせる俺を、日辻は不満そうに見る。 「俺の部屋の様子もよく分からなかったようだし、それにその態度……お前の様子がおかしいことは、認める」 「あ、ああ……」  どうやら日辻は俺の言葉を僅かながら信じてくれたらしい。  俺の知らない所で、日辻は俺を観察していたようだ。 「それはともかく早く支度しろ。劇場に行く」 「え、もう!?」  時計を見ればまだ8時前。  日辻は制作も担当しているので、早く劇場に行ってあれこれ仕事があるのだろうとは予想できたが、あまりにも早かった。 「お前もついて来い」 「いや……っていうか飯は?」 「――別に朝食は食べなくても」 「いや、朝食こそ食べなきゃ駄目だろ」  どうせ昼も夜も忙しくて食べる暇はないんだから。  日辻の仕事は代えが効かないのは分かっているから、尚更劇団のためにも疎かにしちゃ駄目だと咄嗟に考える。 「道具の場所さえ教えてくれたら、支度する間に俺が作るから!」  思わず、そう宣言してしまった。 「……覚えていない癖に、同じ事を言うな……」 「え?」  日辻は何事か小さく呟いたが、俺の耳には届かなかった。  冷蔵庫の中を見せて貰えば、卵や野菜がそこそこ揃っていた。 「何だ、意外にちゃんとしてるじゃないか」 「――全部、お前が用意したんだ」 「……っ」  日辻の言葉に小さく息を飲む。  確かに、俺が使いやすいラインナップだった。  とりあえず目玉焼きを作ろうと卵を持つ。  割ってみると、相変わらずの失敗で卵の黄身は崩れてしまった。 「何をやってるんだ」  日辻は俺の手からボウルを奪うと、卵をさっとかき混ぜる。 「あ……」  非難するような俺の声を無視して日辻は綺麗なオムレツを焼き上げた。 「何か文句でもあるか?」 「い、や……」  適当な癖に狡い程器用な日辻の腕に、喉まで出かかった不満は料理と共に飲み込むしかなかった。

ともだちにシェアしよう!