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飛んで火に入る夜のエサ 2

「あ、いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」  ぐうの音も出ないとはこのことだと思い知らされたタイミングでちりんと入り口のベルが鳴り、芦見ちゃんが接客に向かう。  俺も気持ちを落ち着かせてお皿を洗いに行こう。  大守さんの、なにか言いたげな背中は見なかったふり。  それからまたお客さんが次々訪れ、目まぐるしい時間をなんとか捌きつつもあっという間に閉店の時間。  ちなみに芦見ちゃんは21時上がりですでに帰っている。本人はラストまでいたいらしいけれど、夜道が心配な店の男どもがその辺でどうかとお願いした結果だ。  それでもまだ遅いと思ってしまう辺り、男三人の適当なシフトに慣れていた俺たちは芦見ちゃんに対してすっかり親気分だったりする。  ともかく売り上げの計算や次の日の発注や足りないものの補充、掃除も全部終えて後は帰るだけとなったわけだけど。 「帰りたくないぃ……」  思わず口からそんな言葉が洩れて、そのあまりの情けなさにため息が出る。  こんなことを思ったのはどれぐらいぶりだろう。  ヒバリさんが家に住むようになってから、家に帰るのが楽しくて、会えるのが待ち遠しかった。  だけど今は、そのヒバリさんに会うのが辛い。  朝は寝ているからいいとして、ここ数日帰ってからはずっと顔を合わせ辛くて困っていた。そう思っているのは俺だけらしいから余計気まずいんだ。  それでも普段は二、三日の感覚で食事をするから、そろそろ向こうから言い出される頃だろう。  でも、一体どんな顔して血を吸われたらいいんだ。  相手はただの食事で、誰から吸ってるかもきっとどうでも良くて、それなのに俺はその人に毎回気持ち良くさせられて。懲りずに先を期待して。  気まぐれに優しくして、俺がちょっと勘違いして調子に乗ったらそんな気はないだなんて言ってくれちゃって。  ……大体、あそこまではっきり言う必要ないと思うんだよ。あんなにはっきり興味ないと言われたら、俺だって傷つくのに。  それにヒバリさんには言ってないけど、俺にだって興味を持ってくれている人がいるんだから。  ……そう思うとなんか段々と腹が立ってきたな。  もういっそこのまま一夜限りの相手でも探しにいってやろうか、なんて暴走しかけた思考を止めたのは一本の電話だった。  表示されたのはこの前登録したばかりの名前。 『こんばんは、睦月くん。仕事終わった?』 「は、はい、今ちょうど」  なんとも絶妙なタイミングでの電話に驚いたけれど、常連さんなら閉店時間から予測も可能なのか。  クライスさんは比較的に遅めに来る人だから、ラストまでいたこともあるし、きっとそういう時間が読める男がモテるのだろう。 『実は、夜に開いてる水族館のチケットが今日までなんだけど、一緒に行ってくれないかな。っていうデートの誘いを』 「今からですか?」  確かにこの前別れた時に、今度はちゃんとデートと言って誘うとは言っていた。だけどこれはまた予想外のタイミングだ。  今日まで、と言ってももうすぐ今日が終わる。店が終わるのを待っててくれたのかもしれないけれど、水族館に行くにはだいぶ遅い時間だと思う。 『帰るのが遅くなるけど、それでも良かったら来てほしい。君に会いたいんだ』  それでもその意図は付け足された言葉でわかった。そしてダメ押しのように今欲しい一言を言われて、迷ったのは一瞬。 「……行きます」  店の前まで迎えに行くよと約束して電話を切ると、大きく息を吐く。なにかすごく大きな決断をした気分だ。 「あれ、マヨ? 帰んないのか?」 「あ、えっと、今帰ります!」  その時、店から出てきた大守さんの声に驚いて飛び跳ねそうになった。大人同士の付き合いの話で、別に悪いことをしているわけではないけれどやっぱり気まずい。  そしてこのまま店の前にいるとクライスさんの車がやってくるわけで、目の前でそれに乗り込むのはさすがに気まずすぎるだろう。仕方ないから少し離れて、車が来たら戻ってこよう。  明らかに挙動不審な俺に首を傾げながら、大守さんは店の鍵を閉めて「気を付けて帰れよ」と残して帰っていった。  そもそもヒバリさんとは付き合っていないし、その可能性もないのだからこれは浮気ではない。  そうは思ってもどうしてか悪いことをしている気分で、車が見えるのがもう少し遅かったらたぶん俺は逃げ出していたかもしれない。

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