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雨降って路面が滑る 3

「なんで俺が乗らなきゃいけないんですか」 「君が断るなら、僕のターゲットが変わるだけだよ」 「え……」 「どうしようか。セオリー通りでいくと若い女の子がいいかな。君の近くにいないかい? 暗示にかかりやすい子だと楽かな」  それはあまりにわかりやすい脅迫で、今さら心臓がバクバクと音を立てて鳴り出す。  俺を連れ出すのになんの躊躇いもなく芦見ちゃんを使い、今度は人質として脅してきた。  そうか。吸血鬼なんだこの人。本当に今さらその事実にぞっとする。 「おいで。僕は君の意思で乗ってほしいんだよ。それとも操られて二人で乗りたいかい?」  ほら、とドアを開けられ、他の選択肢は消えた。芦見ちゃんを危ない目には遭わせられない。 「大丈夫。気にしなくてもすぐに暗示は解けるよ。君が、急用ができて帰ったと認識したままね」  近づいた俺の手を掴んでクライスさんが軽く引っ張る。それほど力を込めたようには見えないのに中へと簡単に引っ張り込まれたのは、やっぱり吸血鬼ならではの力の差だろう。  ヒバリさんもそうだけど、細身の見た目に反して恐ろしく力が強い。敵わないと思わせるには今の動きだけで十分だ。  そしてドアを閉めたと同時に車が動き出した。今日は運転手付きらしい。お金のある吸血鬼ってこんなに厄介なのか。  閉まっていく窓の向こうに見えた人に反射的に助けを求めようとして、柔らかだけど力強い手に座席に押し込められた。 「逃げるのは早いよ。今日は君と話しに来たんだ。雨の日なら邪魔は入らないと思ってね」  弱点であるはずの雨を逆手に取ってわざとこの日にやってくるなんて。まさしく隙を突かれた感じだ。  留められているうちに窓の外を流れていく景色は徐々に速くなり、雨が横向きに流れていく。このスピードで車の外に飛び出したら怪我で済むだろうか。 「怯えなくても取って食いはしないよ。今はね」  考えが顔に出ていたのか、クライスさんはドアから離れた場所に俺を座らせ、自分は角の部分に大きく座る。余裕のある仕草ではあるけれど隙はなく、その前を横切ってドアを開けるのはさすがに無理そうだ。  どうやらこれは話を聞く以外にないらしい。 「なんの用ですか」 「うん、じゃあ単刀直入に言うよ。契約しよう。血はいらない。その代わり僕の恋人になってほしい」 「……契約? 恋人? 血はいらないってどういうことですか」 「僕にその体を愛させてくれ。もちろん手当も払おう。どれぐらい欲しい? 君の言い値でいい。それぐらいの価値が君にはある」  身構える俺に切り出されたのは、予想とは違う提案だった。思っていたのとは少し違う展開に呆気に取られる。  それでもどうやらすぐに血を吸われることはないらしいと、隠れて深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。 「価値って、俺に?」 「……そうか。聞いてないのか。まあ言わないか。そうすれば独り占めできるからね」  俺の言葉にほんの少し驚いたように青い目を丸めたクライスさんは、俺の手を取り、まるで騎士がするように持ち上げて手の甲にキスをした。 「君の体は僕たち吸血鬼にとって特別なんだ。どこもかしこも力が溢れていて、与えてもらえるのなら血じゃなくても体液ならなんだっていいくらい。そういう人間を、僕たちは『アルカ』と呼んでいる」 「あるか……? え、力って」 「うーん、言うなれば精力、生命力といった感じかな。睦月くんの中に溢れている力は、僕たちの存在そのものを強めてくれるんだ」 「存在、そのもの……」 「そう。滅多にいないんだよ、アルカは。長い間それを吸い続けると、存在そのものが強くなる。強い日の光を浴びてもダメージは減るし、流れる水に足を取られることもなくなる。十字架はもとより、にんにくだってただ苦手なレベルまで効果が落ちる。なにより感じている君の顔は可愛いときたら、金を払ってでも手に入れたくなるのがわかってもらえるかな」  流れるように説明されたことは、知らないけれど知っていた。  聞いたじゃないか。俺の血を吸ったから日の光も流れる水も平気になったって。ヒバリさんと俺の血が、特別相性が良かったんだと思っていたのにそうではなかったようだ。  吸血鬼にとって、俺の体液が特別だっただけ。  ああ、そうか。だから他で賄える血の食事じゃなくても良かったのか。  それが、血を吸わない俺の家にいて優しくする意味、か。

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