「いらっしゃ……」 　楽しい労働夜の部。 　今日は比較的混まない日のため、大守さんがキッチンで俺がホールと二人でなんとかこなしてきた。夕飯のピークが過ぎ、一息ついたそのタイミングで、ドアのベルが来客を告げたのだけど。 　入ってきた人を見て、さすがに言葉が続かなかった。 「やあ、睦月くん。久しぶり」 　にこやかに入ってきたのはクライスさん。常連さんとしては見慣れた姿だけど、そのまますぎて呆気に取られてしまう。 　あんな目に遭っても怪我はいつか治るだろうし、死なない限りまた会うこともあるだろうと思っていたけれどまさかなんの変わりもなく店に来訪するとは思わなかった。 　ここまで普通に来られると、吸血鬼のクライスさんとは別人だったのかと錯覚しそうになる。 「あ、あの」 「まず誤解を解いておきたい。この店の中で騒ぎを起こすつもりはないし、従業員にも手を出すつもりはない。もちろん君にも。あのブルーレアが食べられなくなるのは惜しいからね」 　どうやってこの場を回避するか。止まった頭をなんとか動かして言葉を絞り出すより早く、クライスさんは少し潜めた声で俺だけに告げる。 　どうやら常連としてこの店を訪れていたのは、本当にステーキ目当てだったらしい。 　今にして思えば、ほぼ生肉に近いステーキを食べる吸血鬼ってかなり怖い気がする。元からクライスさんを怖がっていた柳さんは正解だった。 　キッチンから固まっている俺の様子に気づいた大守さんがこちらに来ようとしたけれど、手を上げて止めた。 　大守さんを関わらせたくないし、そう考えるとクライスさんが来たのがバイトの二人がいない今日で良かった。もしかしてそれだから今日のこの時間に来たのかもしれないけれど。 　とりあえず距離を取りつついつもの席に案内して、注文を取る。当然いつものステーキとサラダだ。 「強引な手を使って悪かったよ。それは謝る」 　そして本題とばかりにこちらを見てきたクライスさんの目をまっすぐ見つめないようにして応じる。 「……まあ、こちらも強引な手で助けてもらったので」 「うん、だからへこんだトランクと粉々になったリアガラスと荒れた車内の修理代は請求しないよ。あと着られなくなったスーツ分も。オーダーで気に入ってたんだけど」 「うっ……あ、ありがとうございます」 　原因はクライスさんといえど、ヒバリさんはヒバリさんで雨の中車に飛び乗り派手にガラスを割ってそこから入り込んだんだ。そりゃあ後始末は大変だっただろうし、修理代は怖くて考えられない。 　なにより走っている車から土砂降りの道路に放り出したクライスさんの被害がスーツだけで済んでいる辺り、さすが吸血鬼としか言いようがない。包帯どころか傷一つ見えない。 　死なないとは言っていたけれど、こんなに簡単に傷が治ってしまうのか。ヒバリさんが面と向かって戦おうとしないはずだ。 「それで、すまないと思ってくれるならお詫びにこの前の話を飲んでくれたりしない？」 「車のことは悪いと思いますけど、俺はヒバリさん一筋なので諦めてください。あの顔がめちゃくちゃ好きなんです。死ぬほど好きだし今すごいラブラブなので無理です、ほんと」 「死ぬほど、ね。そりゃ皮肉が効いてる」 　頬杖をついて薄く笑う死なない吸血鬼クライスさん。俺を見た目が一瞬赤く光った気がして、慌てて目を逸らした。 　後遺症がなかったとはいえ、芦見ちゃんにも簡単に暗示をかけた人だ。油断するべき相手じゃない。 　とはいえ油断しなかったらどうにかなるかといえば、そうでもないけれど。